松本雄貴のブログ

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89回目「自由の幻想」(ルイス・ブニュエル監督)

昔、ダウンタウンのコントに『実業団選手権』というのがあった。小学生の時に初めて見て爆笑した。しかし、このコントの面白さを文章で伝えるのは困難だ。「面白さ」には言語化が可能なものと、そうでないものがある。映画でも小説でもお笑いでも、粗筋があるものは、「面白さ」を第三者に伝えやすい。なんなら、粗筋を最初から最後まで紹介するだけで、内容は伝わる。逆に『実業団選手権』のようなコントは「取り敢えず見て下さい。面白いから」としか言えない。「ボケたらつっこむ」という「お笑いのセオリー」のようなものから遠く離れた場所にある笑いで、これを笑えるかどうかは、見る者の感覚に大きく依拠するように思う。

ルイス・ブニュエルの『自由の幻想』は、『実業団選手権』と似ているかもしれない。「映画の粗筋とは、こうあるべきだ」という世間の常識から、大きく逸脱している映画であった。まさに、常識に捕らわれずに自由に撮っている。とても不埒で危険なものを見ている感じである。などと書いたが、やはり自分の文章力では、なかなかこの映画の面白さを上手に説明できない。例えば、夢の話のように単に荒唐無稽なだけではない、常識的な映画以上に規律を重視しているような感じもある。この規律の部分がきちんとしているからこそ、自由が際立つのだろうか。

この映画の中で、比較的、面白さを文章化し易いシーンを以下に紹介してみる。

学校内で女児が行方不明になった。連絡を受けた両親が学校へ行く。担任の教師が、女児が行方不明になった経緯を両親に説明する。両親は、当然不安になり心配する。そんな様子を見ていた女児が「私ならここにいるよ」と両親のもとに駆け寄る。しかし両親は「今、あなたが行方不明になっているのだから、それどころじゃない。少し静かにしていて」と女児に言う。両親は、行方不明の女児を捜索するように学校長に言う。学校長は、行方不明になった女児の特徴や服装を、目の前にいる女児を見ながら調書に書き込む。何日経っても女児の捜索は終わらない。

というもの。古典落語的で比較的分かりやすい。女児が目の前にいるのに女児が行方不明であることのナンセンス。これが笑い所なのだけど、やはり文章にしても面白さは伝わりにくい。

不思議なのは、こんなデタラメな世界なのに、「子供が行方不明になると親は心配する」という常識は一応、持っているのである。これが「規律」にあたる部分であり、この規律さえも無くなってしまえば映画は成り立たなくなってしまう。自由を自由に自由たらしめるには、規律は必要なのだ。なんのこっちゃ。

で、ここまで書いて、この「規律」さえも取っ払っているのに、きちんと作品として成立している短編を思い出した。筒井康隆の『最悪の接触』という小説。この面白さも自分の文章力では表現できない。『実業団選手権』『自由の幻想』『最悪の接触』、これらの面白さを感じてみたい人は、是非、ご自分の目で…。

 

88回目「ももたろう」(ガタロ―☆マン)

4歳の甥っ子へのプレゼントに絵本でも買ってやろうと、書店内をうろついていると偶然、この『ももたろう』を見つけた。昔話に『ももたろう』なんて、あまりにベタ過ぎるので、普通なら手に取る事すらしないと思うのだが、どこかで見覚えのある絵に「まさか」と思い、作者名を見ると「ガタロ―☆マン」とあった。

あの漫☆画太郎である。漫☆画太郎の漫画については、以前、このブログでも取り上げた。彼の書く漫画は大好きだが、まさか絵本はダメだろう。子供の教育に悪すぎるだろう。・・・と思ったのだが、好奇心と怖いもの見たさが手伝って購入した。しかし、これをそのまま甥っ子に渡すわけにはいかない。検閲が必要だ。自分は部屋で一人、ガタロ―作の『ももたろう』を読んだ。心配は杞憂だった。心配どころか、子供の情操教育にとって、これほど最適な絵本も中々ないのではないか、と思うくらいに感動した。

なんというか、愛と優しさに溢れているのだ。従来の漫☆画太郎の漫画から「下劣なもの」の全てを排除し、濾過すれば、こんなにも純粋で優しさに満ち溢れた絵本ができるのかと、感動したのだ。とりわけ、鬼の扱い方が素晴らしい。本家の「桃太郎」よりも数倍良い。

最近、コロナとか戦争とか気の滅入るニュースが多い。そんな時、この『ももたろう』を読めば少し笑えて、幸せな気分になれると思います。

 

87回目「深い河」(遠藤周作:講談社文庫)

自分は遠藤周作という作家が好きだ。遠藤周作を含め、自分には好きな作家が何人かいる。自分の趣味嗜好を分析してみると、その好きな作家に共通する作風が見えてくる。ここで注釈を入れると、「作家」は好きだが、彼らの書く「作品」が全て好きという訳ではない。好きな作家が書く作品にも、ピンからキリまであり、自分とは合わないものも当然ある。個別の作品ではなく、作家自身の境遇、思想、バックボーンなどに魅力を感じる。或いは、共感や親近感を覚えたりする。そんな作家が書いた作品は、クオリティー的にイマイチでも、或いは、世間一般の評価が低くても、なんとなく許せる。「許せる」というのも烏滸がましい話だが、「この人が書いたのだから仕方がない」と妙に納得してしまうのである。例えば、中島らもの『バンド・オブ・ザ・ナイト』は、自分の中では、そんな作品だった。『バンド・オブ・ザ・ナイト』は、正直、面白くなかった。しかし自分は中島らもという作家が好きだから、納得してしまうのである。大袈裟な表現だが、駄作の中にさえ、その作家の「匂い」を感じて陶酔するのである。まぁ、これは蛇足である。

自分の好きな作家に共通する作風とは、何であるか。考えを突き詰めていくと、「自己批判的である」という結論に達する。反対に、自己肯定的な作風は苦手だ。世の中に対する異議申し立てや自身の政治信条を声高に叫ぶ作品には、「自分の意見は絶対に正しい」という傲慢さが垣間見える。そういう作品に接した時、自分は何とも言えない薄ら寒さを感じてしまう。それらの作品は、概して、意見を異にする他者を攻撃しがちだ。SNSでの誹謗中傷合戦と本質は変わらないように思う。作品が自己肯定的になってしまうのは、ある意味仕方のない事だとは思う。自己肯定とは、全ての人間にとって快感であるからだ。例えば、右寄りの思想を持っている人は、右寄りとされる意見が正論になる。逆もまた然りだ。自身の中で正論とされる事柄を書くと、同じ考えを持つ人たちに支持される。賛同を得られる。俗的な言い方をすると、承認欲求が満たされるのである。その手段は、実は安易で、右なら右、左なら左、各々の思想に於いて正論とされる事を書けばいいのである。それが簡単な事だとは思わない。悪い事だとも思わない。手段こそ安易ではあるが、多くの人の賛同を得る為には、やはり相応の技術や才能も必要だからだ。しかし、そうして書かれた作品を読むと、どうしても自己の言葉に酔いしれて気持ち良くなっている作者の姿が脳裏に浮かんでしまう。それが苦手なのだ。

そういう自分であるから、必然的に「自己肯定」とは逆の「自己批判」を感じる作風が好きなのだ。他人を馬鹿にして笑いを取る作品も良いが、自己の惨めな姿を描いて取る笑いの方が好きなのだ。自虐というものを徹底した作品には、笑いの先にある透き通った哀しみや、さらには狂気といったものを感じる。格好悪いことに徹しきれば、一周回って格好良く見える、といった論理である。今回、読了した遠藤周作の『深い河』は、そういった意味での笑いの要素はなく、ごく真面目な文学作品であるが、遠藤文学の多くに共通する自己批判的な視線は、同じく存在する。

遠藤周作は11歳でカトリックの洗礼を受けている。作家の期間より、クリスチャンとしての時間の方が長い。作家である以前に、クリスチャンである。その為、書かれた作品の多くはキリスト教を主題としている。キリスト教を含む宗教の問題は、遠藤周作の作家としてのメイン・テーマだと言ってよいと思う。敬虔なクリスチャンにとって、キリスト教を批判的に描く作品を書くのは、自己批判的といってよい。「批判的」とは言っても、遠藤周作は作品の中で「宗教は間違っている」というような単純な批判はしない。敬虔なクリスチャンでありながらも、宗教が持つ欺瞞性に違和感を覚え、苦悩する神学生などが描かれている。そこには、単純な善悪では割り切れない苦悩がある。幼い頃から宗教が身近にあり、神を信仰するという行為が当たり前であった人間にとって、その神を疑うという苦悩は、他人が想像する以上に辛い事である。神を批判する、しかし神は神を批判する人間をも愛する、そんな神の慈愛を批判する自分自身を批判する、自分自身を批判するのは神という存在があるからだと、また神を批判する、しかし神はそんな自分をも愛する、以下、無限に批判が繰り返される。その批判が帰着する先は、自己の破壊である。このように入り組んだ批判を、宗教に属さない作家ではなく、当事者であるクリスチャンが書いている。作家自身も苦悩していると想像するのである。

遠藤周作にとって『深い河』は、『沈黙』とはまた別の集大成的な小説であるように思う。インドを舞台にした小説であるが、紀行文学ではない。インドの地で繰り広げられる物語も面白いが、各々の登場人物たちが何故インドに行くのか、その動機の方が重点的に書かれている。全13章からなる長編だが、登場人物たちが実際にインドの地に降り立つのは、6章からである。それまでは、各登場人物たちのインドに行かなければならないそれぞれの事情が丹念に描かれる。また、インドの地に降り立ってからも、何故自分がインドに来たのか、動機が見つけられず、彷徨う人物もいる。

主要登場人物は5人いる。その5人には、それぞれインドを訪れる動機がある。最初に登場するのは、磯辺という初老の男。妻をガンで亡くした彼は、妻の生まれ変わりを探すべくインドを訪れる。これが磯辺のインドを訪れる動機である。ここだけ切り取ると、愛する妻の転生を探し求める夫、という背中が痒くなりそうなロマンティシズムを感じるが、当の磯辺はこれまで輪廻転生など信じた事のない無神論的な人間であり、インドに着いてからも自分の行動に疑問と戸惑いを感じている。そして最終的には転生した妻に出会えるわけではなく、磯辺の行動は、徒労に終わる。読者は、そこに深い虚無を感じる。クリスチャンが書いた小説なのに、「死んだ妻との再会」という奇跡は起こらないのである。輪廻転生はキリスト教ではなく仏教の思想なので、些かこじつけの感はあるが、宗教に属している遠藤周作が、奇跡を書かずに虚無を書いた事に自己批判的なものを感じるのである。

また、敬虔なクリスチャンが書くキリスト教批判は、2人目の登場人物である美津子という人物に顕著である。彼女と生真面目な神学生、大津の関係は、自分が常日頃感じていた宗教というものの矛盾が、余すことなく描かれる。その批判も、作者の地の文による批判ではなく、二人の男女の会話、関係性からあぶり出された自然で押しつけがましさのない批判であり、すんなりと、だけれどでも重くずっしりと読者の胸に響く。

最後に、この小説でもっとも自己批判的であると自分が感じた部分を引用する。

「復讐や憎しみは政治の世界だけでなく、宗教の世界でさえ同じだった。この世は集団ができると、対立が生じ、争いが作られ、相手を貶める為の謀略が生まれる。(中略)それぞれの底にはそれぞれのエゴイズムがあり、そのエゴイズムを糊塗するために、善意だの正しい方向だのと主張していることを実生活を通して承知していた」

こういった文章が、クリスチャンの作家から書かれた事に、敬意を表する。

 

 

86回目「激突!」(スティーブン・スピルバーグ監督)

一台の赤い乗用車がアメリカの田舎道を走っている。片道一車線である。運転手は普通の中年男性。カーラジオを聞きながら、たまに車内で独り言を呟いている。後方にチラチラと大型タンクローリーが見えるが、別に気にならない。よくある光景である。途中、中年男性は給油のためガソリンスタンドに立ち寄る。少し後に、先のタンクローリーもガソリンスタンドに入る。男の給油が中々終わらないのに業を煮やしたのか、タンクローリーが、クラクションを鳴らす。ここら辺から、少し不穏な空気が漂い始める。

給油が終わり、家路に向う中年男性。ここから本格的にタンクローリーの執拗な嫌がらせが始まる。嫌がらせとは、すなわち「煽り運転」である。終始一貫して、タンクローリーが乗用車を煽る行為が描かれる。映画の9割が、タンクローリーによる煽り運転のシーンである。煽り運転の極致といっていい。シンプルこの上ない映画である。しかし、全く退屈させない。90分間、常にハラハラドキドキさせられる。あの手この手を使って、タンクローリーは乗用車を煽るのである。「激突!」というタイトル通り、派手なカーチェイスもある。もちろん、車同士の派手な衝突や爆発も面白いが、それよりも心理面での追い込み方が面白い。乗用車を運転する中年男性が、徐々に神経を消耗していく様がリアルだった。

ひょっとしたら「タンクローリー」は存在せず、中年男性の内なる不安やストレスがもたらした幻想なのではないか、とか、「タンクローリー」とは現代人が抱える不安のメタファーではないだろうか、なんて文学的な深読みもしたが、中年男性以外の登場人物も「タンクローリー」を認知しているため、やはり「タンクローリー」は純粋かつ物理的に存在し、中年男性を攻撃しているのである。しかも、何故かくも執拗にタンクローリーが乗用車を煽るのか、その理由が一切描かれないのも恐い。動機のない純粋な悪意でもって物理的に人を攻撃する。もっとも関わりたくないタイプの悪意である。さらに、タンクローリーを運転するドライバーの顔が一切見えないのも恐い。この演出によって、タンクローリー自体が明確な悪意を持ったモンスターのように見えるのである。

これは、スピルバーグの初期の作品である。シンプルな設定で映画を面白くする要素が、凝縮されているように思う。皆さんも、車を運転するならドライブレコーダーは付けた方がいいですよ。

 

85回目「秘密と嘘」(マイク・リー監督)

数年前にカンヌでパルムドールを受賞した映画。前回のブログで中上健次の『枯木灘』を取り上げた。『枯木灘』を読了して数日後に観たのが、このマイク・リー監督による『秘密と嘘』である。どちらも登場人物たちを取り巻く「複雑な血縁関係」が作品のベースになっており、立て続けに鑑賞すると両者が少しダブった。

久しぶりに良い映画を観た。ストーリーはネットに紹介されているので敢えて詳細には語らない。黒人の娘と白人の母が邂逅する話。そして、母と娘が出会った後の数日が描かれる。役者の演技も、後半の家族・親戚が揃うバーベキューのシーンも、兎に角素晴らしいのだが、実は自分が最も心を掴まれたのは、メイン・ストーリーとは関係のない、サブ・ストーリーのようなシーン。

写真屋を営む弟が、カメラスタジオで客の撮影をするシーンがとても印象に残る。被写体は、老夫婦とか子供とか仲良し紳士たちとか三つ子とかボクサーとか、バラエティーに富んでいる。全体的に重い映画だが、スタジオで写真を撮るシーンは異色。この異色さが、映画にメリハリを付けているような気がした。ここで自分が感じた印象を文章化するのは難しい。とにかく、ストーリーとは全く関係がなく蛇足とも思われるような一連のシーンが、なぜか深く自分の心に残るのだった。

短いけど今日はこの辺で。タイトル以外は、本当に良い映画です。

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84回目「枯木灘」(中上健次:河出文庫)

自分の場合、小説を読んで感動するのは主に「物語」と「文体」に依ってである。どちらか一方でも、自分の琴線に触れれば、素直に感動する。単純な人間なのだ。まあ別に「感動」といっても、泣いたり心が震えたり人生観が変わったり、というような大袈裟な意味ではなく、もう少しざっくりと、「感心」といった方がいいかもしれない。

「物語」で感動するというのは、つまるところ、ストーリーがよくできていて面白いという意味で、ミステリー小説を読んで、驚愕の真犯人が判明した瞬間などに感じる。多分、最もオーソドックスな感動の仕方ではないだろうか。この種の感動との最初の出会いは、恐らく、小学生の頃によんだ野口英雄の伝記だったと思う。野口英雄の、貧しく病弱であった幼少期から、黄熱病の研究でアフリカに行きガーナの地で生涯を終えるまでの物語で、もう殆ど覚えていないけど、小学生の自分を感動させ、「自分も野口英雄みたいに勉強を頑張って立派な人になろう」と思わせるくらいの力が、その物語にあったように記憶している。実際に勉強を頑張ったのは、最初の三日間だけだったことも覚えている。

一方、「文体」で感動するというのは、つまるところ、「語り口」が面白いという意味で、何でもない話でも、作家独自の表現方法で面白おかしく読ませてくれれば、感動するのである。「物語」による感動の仕方よりは、若干高度な感動で、ある程度の読書経験がなければ、「文体」だけで感動するのは難しいだろう。「文体」による感動は、作家との相性も大きく関係してくる。「文体」は、小説を構成する一つの要素に過ぎないが、実は、雑多な装飾を取り払った作家の奥底にある最もピュアな部分であり、「文体」に感動したという事は、イコール、作家の本音の部分に共鳴できたということだ。ただし、基本的に作家は天邪鬼な人が多い。虚構を書く職業なので当然といえば当然だ。意図的に文体を崩し、注意深く本音がカムフラージュされた作品から、作家の本音を読み解くのは至難の業である。しかし、一見、煌びやかに装飾された文体や、無味乾燥して荒んだ文体から僅かに滲み出る作家の本音を探り当て、作家と共鳴できた時の感動は、「物語」によってもたらされた感動よりも、より味わい深いものではないだろうか。

さて、前置きが長くなったが、中上健次の『枯木灘』である。自分は、『枯木灘』を読んで感動した。しかし、自分が『枯木灘』に感動したのは、「物語」でも「文体」でもなかった。

枯木灘』は「物語」と「文体」の両方とも優れた稀有な小説であることは間違いない。「物語」は、秋幸という青年を中心にした、非常に複雑な人間関係が描かれる。まず、秋幸には種違いの兄弟が4人いる。そして腹違いの兄弟も4人いる。その腹違いの兄弟の内、1人は実父の愛人が産んだ子であり、3人は実父の二番目の妻が産んだ子である。さらに、実母の再婚相手に連れ子がいるため、義理の兄弟が存在する。秋幸の周辺だけで、かくも複雑な関係があり、最初は登場人物たちの背景を掴むのに苦労するが、物語がいたずらに錯綜したり混乱したりすることはなく、小説内で発生する大きな事件は、クライマックスである異母弟の殺害の他に、幾つかのセンセーショナルがあるくらいで、分量に比して少なく簡潔だ。つまり、「物語」はシンプルで面白かった。

「文体」には、独得の回りくどさと粘っこさがある。舞台が和歌山県紀州のため、登場人物が話す言葉は大阪弁をより土着的で土俗的にした、きついけどどこか愛嬌のある方言であり、作品の狂気的な雰囲気と妙に調和しており、面白かった。

しかし、『枯木灘』を読んで得た感動は、「物語」と「文体」によるものではない。じゃあ、何によるのかという話だが、それが自分でもよく分からない。小説に一貫して通底する中上健次の魂のようなものかもしれない。という抽象的な結論でお茶を濁そうと思う。

 

83回目「いかれころ」(三国美千子:新潮社)

最近、本を読んでも映画を観ても感想を書く時間が無い。だから今回のブログは、以前、ある読書会に参加した際に、自分の感想をまとめた文章を少し編集して載せます。

 

一回読んだだけでは、登場人物の関係性が掴み辛く、2回読んだ。人物相関図を書いて読むと、とてもクリアに読めた。

一回目に読んだ時は、一人称の語り手が4歳の幼児であることに違和感を覚えた。閉鎖的な村社会での、どことなく不穏で陰湿な雰囲気、「家」という制度が内包している差別性、久美子の志保子に向ける悪意などを、感覚として認知はできても、ここまで高度に言語化するのは4歳児には無理だろう、という違和感である。

語り手が大人になってから4歳の頃の記憶を頼りに書いた、という設定だとしても、幼児の頃の記憶をこんなに鮮明に書けるのは、かなり記憶を補完する必要があり、一つ一つの描写にリアリティがあるが故に、それはリアルな記憶ではない脚色されたもの、という矛盾を感じた。つまり、描写が巧いが故の綻びを感じてしまった。

しかし、そんな矛盾は2回目の読了で消えた。相関図を片手に注意深く読むと人物の関係性がクリアになったおかげで、「4歳の私」を一人称にした語り口は、「いかれころ」という小説に、独得の効果を与えたのではないかと思い直した。閉鎖的な村での封建的な家族の関係、という一見すると通俗的なテーマに陥りそうな小説だが、それを幼児の視点で描く事で生々しさが緩和され、一種のファンタジーのように読めた。

父の隆志と叔母の志保子の関係も、ひょっとしたら恋愛関係にあるのではないか、というような「匂わせる程度」に書かれており、そこに読者が想像力を働かせる余地が残してある。・・・ように感じた。

もしこれが大人の視点から書かれた物語なら、隆志と志保子の関係も、もっと露骨で直接的に描かれそうだが、そうならない所が良かった。

ダイバーシティが声高に叫ばれる現代にあって、一昔前の結婚観や女性観を堂々と口にする登場人物たちにも、あまり嫌悪を感じないのは、やはりそれが幼児の視点からのもので、悪意のない無邪気さが含んでいるからだと思う。

個人的には、志保子が意味ありげに持っていた籠の中に、犬を久美子の写真、久美子と隆志の結婚式の写真が入っていたシーンに感動した。

また、「いかれころ」という狂人を連想させる言葉が、じっさいに精神を病んでいるとされる志保子ではなく、久美子や隆志、まだ見ぬお腹の中の妹に向けられた言葉であるところに、何か考えさせられるものがあった。