松本雄貴のブログ

本。映画。演劇。旅。

69回目「月に囚われた男」(ダンカン・ジョーンズ監督)

監督はデヴィッド・ボウイの息子らしい。デヴィッド・ボウイは、自分が最も敬愛するミュージシャンの一人だが、息子の映画監督としての活躍は殆ど知らなかった。

たった一人で3年間、月面で採掘作業をしている男が主人公。話し相手は人工知能のみ。想像すると恐ろしい。自分なら、孤独に耐えられず発狂するかもしれない。そんな過酷な任務も終わりに近づき、あと何日かで地球に帰れる。そんなある日、男は事故を起こして昏睡してしまう。やがて目覚めると、自分とそっくりの男が自分の目の前にいた…。そんなお話。

外界とのコンタクトを遮断された孤独な状況と、クローン人間。ありがちなテーマのSFで、既視感もあるが丁寧に作られていて面白かった。

男と、男のクローンは、同一ではなく別の役者が演じている。自分は外国人の顔を見分けるのが苦手なので、同じ人間が一人二役で演じていると思っていた。似ていると言えば似ているし、別人と言われれば別人のような気もする。それくらい、見分けが付かない。事故の際に付いた顔の傷が、劇中ずっと消えないのは、自分のような見分けの付かない観客への配慮かと思ったが、そういう訳でもなさそうである。

ありきたりな話なのだけど、前述した通り丁寧に作られており、また随所に細かい拘りがあって好きな作品だった。良質な映画で、爆発的なヒットはないけど根強いファンが多くいると思う。インターネットを中心に、すでに様々なメディアで語られているのを、よく目にするので、今さらネタバレしても大丈夫だとは思うが、やはり、大っぴらに詳細を語るのは、なんとなく憚れてしまう。言いたいけど、あまり言いたくない。そんな微妙な感情を抱いてしまう映画だった。あまり言いたくはないのだけれど、男がテレビ電話で成長した自分の娘と話すシーン。そして、その録音をもう一人のクローンが聴くシーンが、細やかな感動を呼び起こす。不覚にも泣きそうになってしまった。

この映画を見た後、デヴィッド・ボウイの『Space Oddity』を聞いて、その日はよく眠れた。

最近、ブログの文章が短い。少し精神的に疲れている。それが理由か分からないが、琴線に触れる映画を見ると泣きそうになってしまう。

 

 

68回目「ファーゴ」(ジョエル・コーエン監督)

最近、かなり精神的に参っている…。それはさておき。

金に困った男が、同僚の知り合いの二人のチンピラに妻を誘拐させ、義父に身代金を払わせ、その身代金の半分を誘拐犯に渡し、残りの半分を自分のものにする・・・。という計画が二転三転し、悲劇が起こる。そんな感じのブラック・コメディー。

取り敢えず、金が欲しいからといって上記のような回りくどい方法を取るだろうか。真面目に働いた方が手っ取り早いに決まっている。さらに、回りくどいわりに計画自体は恐ろしく杜撰だ。狂言誘拐という大それた事をやろうとしているのに、詰めが甘すぎる。成功する見込みなんて無い。

短絡的で身勝手、さらに優柔不断で気の弱い男に心底腹が立った。しかし、その男のダメダメな部分が妙にリアリティがあり、面白かった。 

前回のブログで『雪山とその周辺』を取り上げたが、その中で、この小説を「今の自分にとって精神安定剤のような小説」と評した。コーエン兄弟の『ファーゴ』も、今の自分にとっては同じような映画だ。もちろん、両者の作風は全然違う。『雪山とその周辺』は優しく穏やかな小説だが、『ファーゴ』は沢山の人の血が流れるし、残虐なシーンも結構あるし、心が癒されるような映画では決してない。でも、不思議と自分の心には同じような安心感をもたらしてくれた。 

前述した通り、『ファーゴ』に出てくる男は、とても情けなく最低な男だ。仮にも長年連れ添った妻に対して誘拐を企てようとする発想が、とても身勝手である。誘拐犯に襲われた妻の恐怖を思うと、不憫でならない。この夫の妻に対する愛情とは、一体なんだったのだろうと虚しい気分になる。家族愛や夫婦愛よりも、短絡的に得られる金の方が、男の中では或る瞬間は確かに重かったのである。そこが、なんとも苦々しい。ブラックな映画である。 

なぜ自分が『ファーゴ』を観て『雪山とその周辺』を読んだ時と同様の心の平静を得られたのか。その理由は、ひとえに自分の性格の悪さにあるように思う。

『ファーゴ』の夫のような弱く情けなく頼りない男でも、一応は妻と結婚して息子を育て家族を養い、会社では部長職に就いている。あれだけ最低な男でも、そこそこの人生は送っているのだから、自分の人生も少しは大丈夫だろうという思考である。要するに人と比べて(それも架空の映画の人物と)自分の優劣を決める低俗な行為からくる安心感なのである。 

映画の見方としては間違っている気がするし、改めて、自分という人間の卑小さに呆れる。ただ、それくらい今の自分は精神的に参っているのである。どうか、ご勘弁を。 

 

 

67回目「雪沼とその周辺」(堀江敏幸:新潮文庫)

物心が付いた時から今までの人生の中で、悩みが無かった時期はない。常に、何かに対して悩んでいる。「悩みの無い人生というのはつまらない」という人がいる。その言葉の意味は、悩みを乗り越える事によって人は成長する、という事なのだろう。それは、その通りだと思う。「悩みのない人生」というのは想像すると確かにつまらない気がする。でも、悩みのど真ん中に身を置いている間は、たとえそれが傍から見ると非常に些細な悩みであっても、成長なんてしなくていいから早く悩みから解放されたいと思ってしまう。自分の力で悩みを乗り越えようという気力すら起こらない。結果、些細な悩みに対しては、自分が努力して乗り越えるまでもなく、気が付いたら時間が勝手に解決してしまっている。その些細な悩みが終った次には別の些細な悩みが現れる。それの繰り返しで今まで来ている。その間、こちらは悩みを乗り越える為のいかなる努力もしていないので、人間的な成長はゼロである。「悩みを乗り越える為の努力ができない」というのも、また一つの悩みだ。

だから、自分は常に満たされない。何かと人と比べてしまう。そして常に自分は他人に対して劣っているように感じる。溜息が尽きない。焦燥に駆られる。今現在、自分はその些細な悩みを抱えている。しかも今回の悩みは、時間が解決してくれるには文字通り少し長い時間が掛りそうだ。

そんな厄介な時期に読んだのが堀江敏幸の『雪沼とその周辺』である。なんだろう、この今の自分にぴったりの精神安定剤のような小説は。7つの短編が収録されている。いずれも独立した短編だが、各々の作品がどこかで微かにリンクしている。注意深く読まなければ見逃してしまうような微かさだ。そして、注意深く読むことを強制したりもしない。気付く人は気付けばいいし、気付かなくても別によい。そんな感じの微かさだ。この控え目な感じが、まず優しい。差し出がましい優しさではなく、自然に自分の隣に座っていてくれる。そんな優しさだ。

精神安定剤のような小説と書いたが、『雪沼とその周辺』を読んだからといって、今の自分の悩みが綺麗に解決するなんて事はない。明日を生きる活力を与えてくれるようなパワフルなものでもない。この短編集には、そんな劇薬のような力はない。逆に「等身大でいいじゃん」とか「人間は弱くて当たり前」といった言葉で悩みを肯定してくれるような作品でもない。強いて言えば「そんな生き方もあるよね」と教えてくれるような小説だ。肯定も否定もせず、ただ空気のように漂っている。悩みに対して「達観」という程でもなく、「追認」するような恩着せがましい優しさでもなく、「応援」のような暑苦しさでもない。そんな控え目で微かな気配を感じさせてくれる小説である。

収録されている作品の中では特に『送り火』と『ピラニア』が好きだ。特に『ピラニア』の人一倍、不器用だが、変なプライドを持たず、闘争心や出世欲とは無縁の、いわば究極の自然体とでも言えるような主人公が、奥さんと出会い結婚し、細やかな生活を淡々と送っている様子が良かった。大きな幸せではなく、細やかな幸せを、内容と同じく控え目な文体で描かれており、少し身につまされた。今現在、悩んでいる人にとって、少しだけ心の支えになってくれる小説ではないだろうか。 

 

66回目「その男、凶暴につき」(北野武監督)

自分は「歩き方」にコンプレックスがある。どうも自分の歩き方は、他の人と比べると変なのだ。それを初めて自覚したのは、学生の頃だ。アルバイトの面接に行った時だった。面接が終ると、立ち上がって面接官に一礼する。そして向きを変えて部屋を出る。この一礼して部屋を出るまでの歩き方が、どうもぎこちない。面接官も自分のぎこちない歩き方を恐らく見ている。挙動不審な奴と思われていたかもしれない。以来、社会人になってからも何度か面接は経験したが、この面接が終って部屋を出るまでの「変な歩き方」は一向に改善できない。

法事の時も困る。自分にお焼香が回ってくるまでの時間が、なかなか苦痛だ。変な歩き方にならないように意識してしまい、余計、変になってしまう。線香の粉みたいなやつを摘まんで額の前に持っていき、器の中に振りかける、という一連の動作を2,3回した後、遺影に向かって一礼して自分の席に戻る。例によって、この戻る時の歩き方がとても変なのだ。いや、歩き方だけでなく、その前後の儀式を含めた一連の動作が変なのだ。こんな歩き方をされたら故人も浮かばれないと思う。

もし、内閣官房長官にでもなろうものなら、毎日が憂鬱だろうと思う。スタスタスタとポーカーフェイスで歩き、国旗に向って一礼し、何事もなかったかのように壇上に上がり、記者からの質問に答える。あんな芸当は自分にはできない。絶対、どこかの所作が不自然になる。或いは、全部が不自然になる。基本的に政治家なんて全員大嫌いで軽蔑しているけれど、そこだけは尊敬する。

結婚式の余興も辛い。過去に披露宴に出席した時、ビンゴゲームでビンゴになった。しかし、自分はビンゴの権利を放棄した。「ビンゴ!」と叫んで景品を取りに行き、司会の人に渡されたマイクで新郎新婦にちょっと気の利いた挨拶をし、景品を受け取って席に戻る。・・・想像しただけでも身の毛がよだつ。だから、ビンゴになっても周りに悟られないようにしていた。「リーチにはなるんだけどなぁ」なんて白々しい事を呟きながら。

それもこれも、全部、自分の変な歩き方に起因している。

一体、自分の歩き方は、どんな歩き方なのか。『その男、凶暴につき』の北野武とそっくりな歩き方なのだ。ガニ股でだらしなく、姿勢が斜めに傾いており、左右の肩の高さが違うので非常にバランスが悪い。中心に芯が通っておらずフニャフニャしているくせに、どこか傲岸不遜な感じ。「無様」という形容がぴったりの歩き方なのだ。歩き方が似ているという共通点しかないが、それ故に自分は『その男、凶暴につき』のあの男に親近感を抱いてしまうのだ。そして、そんな無様な歩き方しかできない男が、なんの躊躇もなく人を殴り、車で轢き、ナイフで刺し、拳銃で撃つ。「歩く」という最も基本的な動作すらできない男が、他人に暴力を振るう時は輝いて見える。暴力によって困難を解決していく様子が、痛快でありながら、同時に哀しかった。その哀しさの裏には、あの無様な歩き方があるのだ。

その男、凶暴につき』は、北野武の処女作にして最高傑作だという意見をよく聞く。それに異論はない。しかし、案外『その男、凶暴につき』が名作たりえるのは、「歩き方」が大きいのではないだろうか。

 

64回目「水いらず」(サルトル:新潮文庫)

本書を読んだからといって、サルトルの哲学について理解できるわけではない。小説はあくまで小説であり、それ以上でも以下でもない。

裏に書かれた粗筋とあとがきの解説によると、一応、収録されている5つの作品はどれも、サルトルの思想である実存主義に関係しているようである。しかし、哲学の知識がなくても充分、小説として楽しめる。むしろ、純粋に小説を楽しむなら余計な知識は邪魔だろう。いずれの作品も粘り気があってどんよりした雰囲気が共通している。そして、そこで描かれる世界は驚くほどに狭い。せせこましい。哲学者が書いた小説なので、さぞかし難解で高尚な世界が描かれているのだろうと思いきや、中身はとても通俗的だ。そういうところが、逆に面白かった。浅学な自分は、サルトルの有名な言葉「実存とは本質に先立つ」とは、つまるところ、「通俗的なものは高尚なものに先立つ」という事の言い換えなのだろうか? なんて思ったりした。多分、間違っていると思う。小説を読んで興味が出たのであれば、そこから哲学を勉強してみるとよい。それが正当な順序だろう。学ぶために小説を読むのは順番が逆である。

①水いらず

表題作だが、収録作品の中では、自分は一番よく分からなかった。正直印象の薄い作品だ。不能者である夫の元から一度逃げだした女が、結局、夫の元に戻ることになった顛末が書かれている。読後の印象は薄いが、人間の身体のどことなく醜い感じを上手く表現している。適度に日焼けした筋骨隆々で健康的な身体と対照的な、ぶよーんとした脂肪をまとった色白の不健康な身体に対する生理的な嫌悪を文体から感じた。個人的な感覚だが、納豆を食べている人の口元とか、スイカを食べた後に吐き出された種とスイカの残骸を見る時に感じる気持ち悪さと同じものを感じた。納豆やスイカが嫌いなわけではないが、食べている人を見るのが苦手なのだ。自分だけにしか分からない感覚だと思う。

②壁

死刑囚と密室という設定、それぞれの囚人の心理描写が巧みで、最後まで緊迫感を持って読めた。プロットもよく考えられており、短編小説として引き締まっている。サルトルの思想を、サルトルの小説に無理矢理こじつけて解説するには、この『壁』が一番しっくりくると思う。つまるところ不条理な世界が書かれている。カミュの不条理とサルトルの不条理はどう違うのだろう。なんてことを考えたい人は考えてみるとよいと思う。自分は面倒くさいから物語の世界に浸るだけで充分だ。

自分は小学生の頃、この『壁』と似たシチュエーションを体験した事がある。A君という友達とキャッチボールをして遊んでいた。A君の投げたボールが、B老人の盆栽に当たって割れた。自分は、素直にB老人に謝ろうとしたけど、A君は「バレないうちに逃げよう」と提案した。結局、自分とA君は逃げた。過去にも同じ経緯で自分はB老人の盆栽を割ったことがあるので、容易に犯人として挙げられた。で、B老人は自分の家に来て共犯者を教えろと言ったが、自分はA君を裏切るのが嫌だったので、C君という全然違う友達の名前を言った。C君には悪い事をしたと思ったが、当時、C君とは喧嘩中だったし、C君が潔白ならすぐに解放されるだろうと高を括っていた。しかしC君は盆栽を割るよりももっと悪い犯罪、すなわちスーパーでお菓子を万引きしていた。自分が適当に垂れ込んだのが原因でC君の万引きバレてしまったのである。『壁』とは若干違うが、自分が初めて世の中の不条理を感じた瞬間だった。「不条理」という言葉を覚えるよりもずっと昔の話である。

③部屋

狂人と結婚した娘とその両親が出てくる話。人は、自分の価値では測れない異質な他者に対して畏怖と軽蔑の両方を感じようとする。いずれも愚かな感情であり、愚かであるが故に人間的な感情でもある。いわば、卑小な感情だ。神を崇める宗教も、無神論的なニヒリズムも、人間が卑小な存在であるからこそ生まれたシステムなのではないだろうか。なんてことを考えてしまったが、まぁ、せせこましい話である。

④エロストラート

 一番、面白かった。一人の人間がテロリストになるまでの変遷、つまりテロリスト誕生のメカニズムがよく分かる。内容はマーティン・スコセッシの『タクシードライバー』にそっくりな小説。『タクシードライバー』にはラストに救いがあったが、『エロストラート』は少しダーティーだ。『タクシードライバー』の主人公には人としての良心や可愛げのようなものがあったが、『エロストラート』の主人公は終始、自分勝手な妄想に取りつかれている。

⑤一指導者の幼年時代

これについては、書きたいことが沢山ある。それ故、まだ自分の中で纏まっていない。今後、考えが纏まればブログに感想を書こうと思う。

 

 

63回目「エイリアン」(リドリー・スコット監督)

『エイリアン』は、自分にとって特別な映画だ。自分の意志で見た初めての映画が『エイリアン』なのだ。中学1年生の時、近所のTUTAYAで会員証を作った。親の扶養に入っている健康保険証を持参し、受付カウンターで複写式になっている専用の用紙に氏名や住所を記入し、無事に会員証を作り終えた。何だか大人の世界に少し近づいた気がして嬉しかった。その初めて作った会員証で最初に借りたのが、『エイリアン』だった。何故、数ある映画の中から『エイリアン』を選んだのか。それには、少し恥ずかしい理由がある。

実はその数年前、つまり小学生の頃に一度だけ友達の家で『エイリアン』を見ている。最初から通しで見たわけではなく、エイリアンが登場するシーンをダイジェストで見た。当然、細かいストーリーなどは何も覚えてないし、多分、理解もしていなかった。ラスト近くの、シガニー・ウィーバー扮するリプリーが服を脱ぎ、お尻が半分見える少しエッチなシーンだけを鮮明に覚えていた。その日の夜は、なんだか見てはいけないものを見たような気がして悶々としていた。中学生になって、もう一度そのシーンを見たいと思ったから『エイリアン』を真っ先に借りたのだ。つまり、自分にとって最初の「性の目覚め」は『エイリアン』なのだった。

小学生とか中学生にとって、『エイリアン』は危険だ。人が映画を見る動機は様々だが、「知らない世界を覗きたい」という欲求が根底にあると思う。或いは、仕事とか学校といった現実での生活に疲れた時に、非現実なファンタジー求める気持ちもあるだろう。至福を求める気持ちの裏には罪悪感と背徳感が伴う。中学生の時に見た『エイリアン』が、あれだけ見ている最中にドキドキしたのは、宇宙船の中という現実の世界では体験できない設定、小学生の時に初めて触れたエッチなシーンの確認、乗組員が徐々にエイリアンに襲われていく恐怖など、まさに、人が映画に求める「危険な感じ」が全て詰まっていたからだ。大人の世界に憧れるけど、不良になるには真面目だった中学生の自分にとって、『エイリアン』を見ることは禁忌に触れることと同じだった。「よくない事」をしている時に感じる後ろめたさと恍惚を同時に味わっていたのだ。

そんなこんなで、『エイリアン』は自分にとって特別な映画なのだ。その『エイリアン』をつい先日、久しぶりに再見した。さすがにもう大人だし、『エイリアン』なんかよりずっと危険な映画も観ているし、『エイリアン』が自分にとって特別な映画であることに変わりはないが、当時のように興奮することはなく冷静に観た。リプリーの半ケツも、別にどうってことはない。まぁ、当然だ。

冷静に観ると、細かい部分に至るまで『エイリアン』的な世界観が行き届いており、映画としての完成度が高くて面白かった。『エイリアン』が今でもSF映画の金字塔とされるのも頷ける。乗組員の中にアンドロイドが一体紛れ込んでおり人間を監視しているという設定も、現代のSF映画ではよく見る設定だが、当時としてはかなり斬新だったのではないだろうか。そして、このアンドロイドがとても気持ち悪い。アンドロイドなのだから、中身は電気配線や機械が埋め込まれたメカニックな感じかと思いきや、白い気持ちの悪いドロドロした体液みたいなものを口から吐いて、生々しい生物的な気持ち悪さがある。この気持ち悪さは、主役のエイリアンのフォルムとはまた違った気持ち悪さがあった。アンドロイドの性格も嫌な性格だ。人間とアンドロイドの共存をテーマにした作品は、だいたい、人間の方が性格的に悪く、「心」の芽生え出したアンドロイドに対して非人間的な仕打ちをすることが多いが、『エイリアン』に登場するアンドロイドは逆で、このアンドロイドは最後の皮肉めいた台詞も含めて、嫌な奴だった。そういったところも面白かった。

最初にエイリアンに取りつかれた男の腹から、小さいエイリアンが出てくるシーンも、ものすごく気持ち悪かった。ゴキブリが一匹出ただけで慌てふためく自分には、とても耐えられない。あの場にいたら発狂すると思う。猫の演技もよかった。なんとも言えない表情が、上手かった。最後に優秀な女性と猫が助かるというのも、お約束みたいなものだが、良かった。

てか、こんな気持ち悪い映画を見てリビドーを感じた小学生の自分が少し怖い・・・。

 

 

62回目「見知らぬ乗客」(アレフレッド・ヒッチコック監督)

ヒッチコックの代表作の一つ。ヒッチコックのファンからも比較的人気が高い作品ではないだろうか。

性悪な妻と離婚して、政治家の娘と結婚したいと常々思っていたテニス選手(ガイ)が、列車の中で偶然出会ったブルーノと名乗る怪しい男に交換殺人を持ちかけられる。ブルーノはガイに「俺が君の妻を殺してやるから、君は俺の父親を殺して欲しい」と提案する。ガイは冗談だと思い適当にあしらうが、ブルーノは本当にガイの妻を殺してしまう。そして「約束通り君の妻を殺してやったから、次は君が俺の父親を殺せ」と取引を持ちかけ、「君も共犯者だ」と強請る。平たく言えば、そんな話だ。

もし同じ設定で脚本を書くとすれば、多くの人は、ガイにもブルーノの父親を殺させるだろう。二つの殺人を絡めて、トリックなどもアレコレ考え、話を複雑にしようとする。自分もきっと、そのような展開に持って行くと思う。そっちの方が「なんとなく面白そう」だと錯覚してしまう。

ヒッチコックは、そんなありきたりな展開にせず、ブルーノにガイの妻を殺害させた後は、ひたすらブルーノのサイコパス的な気味悪さに焦点を充てて、サスペンスを紡いでいく。色んな所に手を出そうとしないから、脚本が締まる。こういうところがヒッチコックの稀有な才能なのだろう。「見せ方」がとても巧いのだ。

シンプルな展開で無駄がないから、それぞれのキャラクターが光る。冒頭のブルーノの芸能リポーター並みにグイグイ迫ってくる感じは本当に鬱陶しい。妻を殺害した中盤以降も、抑制の利かなくなった人間の狂気をとても上手く表している。「何をしでかすか分からない男」の恐さを充分醸し出しており、悪役として申し分ない。一つ、とても印象的なシーンがある。遊園地のような場所で妻を尾行するシーン。途中で通りすがりの子供が、ブルーノに子供らしいちょっかいを掛けるのだが、ブルーノは顔色一つ変えず、子供の持っていた風船を煙草の火で割る。子供に対してのとても冷酷な仕打ちを無表情で成し遂げる。ストーリーとは全く関係のないシーンだが、こういったシーンを入れる事によって、ブルーノのサイコパス的な怖さを際立たせるのだ。

ガイの人物造形もよかった。常識人でありブルーノの提案に乗らなかったことでヒーローとしてのガイの魅力も増す。だから、終盤のメリーゴーラウンドでの戦闘シーンも格好良かった。純粋なヒーローとしての格好良さがあった。ガイを格好良く見せる為に、殺された妻を誰が見ても嫌な女に仕立て上げ、対照的に愛人の女性は凛とした美しさとチャーミングさを併せ持つ人物に設定したのもよかった。或いは寧ろ逆で、妻と愛人の人物造形が、典型的だからこそ、ガイが物語のヒーローとして格好良く映ったのかもしれない。

殺された妻に顔が似ている、愛人の妹もイモっぽさがよかった。

要するに、悪役もヒーローもヒロインも、それぞれキャラが立っていたのだ。サスペンスとかミステリーは、脚本は勿論重要だが、脚本を凝り過ぎると映画としての見どころが薄れてしまう。逆に脚本がシンプルでも、キャラクターの人物造形がしっかりしており、それらを際立たせる演出が冴えわたっていれば、サスペンスとしても一級品となる。

よくよく考えると『見知らぬ男』はブルーノがガイの妻を殺したことを、ガイが最初に警察に言っていれば話が終ってしまうのだが、そのような重箱の隅をつつくのは野暮だろう。実は、ヒッチコックの映画ってこういうアラが結構あって、例えば『裏窓』なんて映画も、向かいの建物の作りが都合が良すぎるだろうとか、色々突っ込みたくはなるのだが、そのような指摘は、映画を見終わった後に気付くのであって、鑑賞中は映画の世界に入り込んでしまい、不思議と気にならない。要するに、見せ方が巧いのである。

今さら自分如きがヒッチコックの映画に対して「見せ方が巧い」なんて言ったところで、ヒッチコックからしてみたら「はぁ? 誰やねん、お前?」と思われそうだが、取り敢えず見た感想ということで。。。