松本雄貴のブログ

本。映画。演劇。旅。

59回目「野いちご」(イングマール・ベルイマン監督)

1957年公開の映画。本ブログで取り上げた映画の中では恐らく一番古い。有名な映画だが、自分は初めて観た。モノクロの映画なので、眠気に襲われないか心配だったが杞憂だった。巨匠の古典的名作だと思って最初は身構えたが、途中から全く気負わずに観ることができた。総じて楽しい映画であった。

少し偏屈で皮肉屋の老人が主人公。老人は長年医学の研究をしている教授で、これまでの功績を称えられ大学から学位の受賞式に呼ばれる。老人は、ストックホルムから授賞式が行われるルンドという街まで車で移動する。その道中で起こる彼是を中心に描いたロードムービーだ。

老人に同行する人、つまり旅のパートナーになるのは息子の奥さん。つまり義理の娘だ。この設定がなかなか心憎い。義理の親子という関係は、血の繋がりはないが赤の他人でもない、謂わば、微妙な関係だ。濃密でもなく希薄でもない。この関係の微妙さが、時に旅の熱気を抑制し、時に旅の過酷さを緩和する。物語がどちらかの方向に傾くのを中和する役割を担っている。そして、何故この義理の娘が老人の家に居候していたのかが明かされる瞬間が少しほろ苦い。

道中に人と出会う楽しみもロードムービーの醍醐味だ。先に「総じて楽しい映画」と書いたが、自分が『野いちご』に楽しさを感じたのは、主人公たちが途中で出会い、そのまま最後まで同行する3人の若者(男2人に女1人)が大きく関係しているように思う。この3人の若者、とても良い人達なのだ。「良い人達」との形容は抽象的に過ぎるのでもう少し付け加えると、奔放で屈託がない人達だ。この3人の若者は、たまに口論をしたり喧嘩をしたりもするが、嘘がない。底なしに明るくあっけらかんとしている。モノクロの画面の中で、太陽のように映えている。悪意と底意地の悪さに満ちた現代社会に生きる自分は、こういう人と友達になればきっと楽しいだろうな、と思わせられた。義理の娘が、妊娠と夫婦仲に亀裂が入っている事を老人に告白し、映画が少し不穏なトーンに覆われるが、3人の無邪気さが最後まで映画に明るさと楽しさを添えている。だから、安心して観ていられるのだ。

時折、老人の回想シーンと夢のシーンが挿入される。夢のシーンは死を強く暗示しており、暗くて不吉だ。冒頭の夢のシーンは、シュルレアリスム的な不気味さと怖さもある。夢の不吉さは旅の楽しさとは対極的で、コントラストがくっきりと印象付けられる。この夢のシーンが、映画に楽しさだけではないメリハリのようなものを与えており、それは、人生は旅のように楽しいだけではない、終わりは必ず死が待っていると、映画に教えられているような気がした。それは人生の教訓である。

自分がイングマール・ベルイマンの映画を観たのは、『仮面・ペルソナ』に引き続いて2作目である。もっと見たいなと思った。

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58回目「ふらんす物語」(永井荷風:新潮文庫)

自分は結構、海外旅行が好きだ。沢木耕太郎とか金子光晴に憧れてインドを放浪していた時期もあった。といっても訪れたことのある国は全部で11か国とそれほど多くない。ガチでバックパッカーをやってる人には、遠く及ばない。そして、その11か国の中に、フランスは入っていない。

今後もフランスに行く予定はない。もし今、仮に海外に行けるのならヨーロッパよりもアジアかアフリカを選ぶ。アジアかアフリカの方が、混沌としていて面白そうだ。もし今、仮にヨーロッパの国のどこかに行けるのなら、東欧のどこかを選ぶだろう。自分は誠に失礼な話だが、東欧の国々に対して貧しく荒んだイメージを勝手に抱いている。その荒んだイメージが自分に合っている気がする。フランスは文化的に洗練されている印象があり、自分には少し敷居が高いように思う。フランス文学もフランス映画も好きだけど、フランス自体には行きたいと思わない。芸術家としての視点ではフランスはとても魅力のある国だが、旅人としての視点ではあまりそそられるものがない。自分にとって、フランスとはそのような国だ。 

永井荷風は明治の作家である。自分とは違い、芸術家としても旅人としてもフランスに惚れ込んでいる。それはこの『ふらんす物語』を読めば分かる。フランスに対する熱が強すぎて、フランスへの一直線な思いが空回りしている部分も多い。フランスがどれだけ作者にとって住み良い美しい国であるかを表現するために、わざわざ他の国を貶めたり、その貶め方も明らかに差別的な表現を用いていたりする。甚だ視野狭窄的ではあるが、我々とは全く別世界に生きた人物が書いた紀行文として割り切ると、差別的な表現も読んでいてそれほど不快には感じない。寧ろ、作者のフランスへの愛が強すぎるが故の表現だと捉えて読むと、一種の愛嬌をも感じる。それくらい荷風のフランスへの思いは屈託がない。明治の文豪なんて所詮、我々とは生きた時代も見た風景も違うので、差別的表現を一々気にしない方がよい。因みにいうと、この『フランス物語』は国籍に対する差別的表現だけでなく、男尊女卑的な表現も多い。収録されている『雲』という短編が特に男尊女卑的だ。『雲』の主人公はとても最低な男で、自分の性欲は正当化し「女を買う」ということに些かの抵抗も感じないが、女にはプラトニックを求める。そして、女との恋愛が面倒になると、これまた都合の良い言い訳で自身を納得させて女を捨てる。要約すれば、そんな男が出てくる話だ。娼婦に対する偏見もひどいものだ。

これはこれで面白い作品ではあるが、現代の観点から考えると、不快に思う人もいるだろうから、オススメはしない。

ところで、よく巻末に「当作品には差別的な表現があるが、作者に差別を助長する意図はなく、作品の文学的価値と作者が故人であることを鑑み、そのままにしています」と書かれた本を見かけるが、その一言を付け加えることによって、全ての差別的表現が許される文学界の風潮は、どうなのだろう。自分はずっと違和感を持っている。単に免罪符として、このようなフレーズを乱用するのは良くないように思う。いっそのこと、「私は差別する気が満々でこの作品を書きました。それが不快なら最初から読まないで下さい」と書いてくれた方が、潔い気がする。

 もう少し『ふらんす物語』の中身に触れる。タイトルの通り、永井荷風のフランス外遊時の体験を元にした、短編と随筆で8割ほど占められているが、時折、アメリカ滞在時の回想が挿入され、アメリカとフランスの違いを比較する。比較の対象は、車窓から眺める景色の印象であったり、良い芸術が産まれるにはどちらが適しているかの考察であったり、女の性格であったりする。いずれも、荷風の中ではアメリカではなくフランスに軍配が上がる。そういったところが、憎めない。

また後半は、フランスから日本に帰国するまでの道中に訪れた国も舞台となる。ポルトガルシンガポールなど、フランス以外の国について書かれる。この辺りから、アジア諸国に対する差別的表現が顕著になってくる。そして、日本の帰国が徐々に近づくにつれ、フランスにホームシックを感じる様子が面白い。その感情は、当時の文士たちが皆、多かれ少なかれ持っていたであろう西洋コンプレックスの裏返しなのだろうかと思うと、とても興味深い。

ともあれ、今はコロナ禍で海外旅行ができない。『ふらんす物語』は、読むと異国情緒を感じられる。スマホもインターネットもない時代の海外生活を疑似体験でき、お得なのではないだろうか。

以上

 

ふらんす物語 (新潮文庫)

ふらんす物語 (新潮文庫)

 

 

57回目「闇の奥」(ジョゼフ・コンラッド:岩波文庫)

フランシス・フォード・コッポラの映画『地獄の黙示録』の原作。映画は完全版で3時間半くらいあり非常に長い。『地獄の黙示録』を観たのは15年ほど前だろうか。あまり覚えていないが、ジャングルの奥地へ主人公一行が船で進んでいくシーンの臨場感と、泥沼から男が顔を出すシーンの薄気味悪さは覚えている。

また、冒頭に流れるドアーズの『The End』と「カタツムリが剃刀の上を這う」イメージが、他の戦争映画にはあまり感じない不穏さを強く印象付けられた。この不穏さは戦争ではなく人間一般が持つ不穏さだと、若い頃の自分は結論付けたのである。しかし、若い頃の感覚ほど当てにならないものはない。この感覚が正しいのかどうかを再度検証するため、今回、『闇の奥』を読み終えてからもう一度『地獄の黙示録』も観ようと思ったのだが、なかなか時間がなく、まだ観ていない。だったら最初から書くなという話だ。ただ、早くブログを更新したかったので、映画は再見していないが、続けて書くことにする。

地獄の黙示録』はベトナム戦争の映画で、舞台もベトナム(orカンボジア?)だが『闇の奥』はアフリカの奥地である。取りあえず、『闇の奥』を映画化しようと思い立った時に、設定をベトナム戦争にアレンジしようとする発想はまず自分には思いつかない。

『闇の奥』では主人公マーロウが、アフリカの奥地にいるクルツいう名の腕きき象牙採取人に会いに行くという話。『地獄の黙示録』では、主人公ウィラード大尉がカンボジアの奥地で独立王国を築いているカーツ大佐を暗殺しに行くという話。

マーロウがウィラード大尉に、クルツがカーツ大佐にそれぞれ置き換えられている。得たいが知れないが、ある種のカリスマ性を持った人物に会いに行くことが映画と小説の共通部分であり、話の根幹である。この部分を変えてしまえば換骨奪胎したことにはならない。映画はかなり大胆で飛躍したアレンジだが、小説の主題・モチーフを変えているわけではなく、ちゃんと残している。さらに戦争映画が持つスケールと狂気を獲得している。当時の自分は『地獄の黙示録』を語れるほどには理解しておらず、長くて難解な映画だと正直思ったが、コッポラ監督の原作に対する敬意は、『闇の奥』を読み終えた今は感じられる。

ここからは『闇の奥』を読んだ純粋な感想を書く。

まず、マーロウは実際にクルツに会うのだが、自分はクルツが登場しない方がよいのではないかと思った。カフカの『城』が、目の前にあるはずの城に永遠に辿り着けない様子を描くことにより、実体があるのかないのか分からない城に翻弄される不条理、ひいては存在の不安というものの表現に成功しているのと同様に、『闇の奥』も最後までクルツが現れない方が、クルツという存在の不気味さと不可解さをより強く表現できたのではないかと思った。事実、ラスト近くでマーロウがクルツに会う場面、そして二人が会話をする場面は、クルツの登場に些か興覚めした。「すごい奴」「得体の知れない男」というネタフリにずっと付き合わされていたが、実際に現われると、どうってことのない少し精神がおかしいだけの普通の男という印象がぬぐえなかった。クルツはもっと悪魔的で怪物的な人間だろうというこちらの予想が悪い意味で裏切られた感じがした。カフカの『城』もベケットの『ゴドーを待ちながら』も「現れないこと」「辿り着けないこと」に価値がある。『闇の奥』も、こっちの系統であってほしかった。あと、『闇の奥』は三人称の小説だが、ストーリーの9割はマーロウが同僚の船員たちの前で喋るという形で書かれている。つまり、一人語りが恐ろしく長い。それならば、マーロウの独白とかマーロウの手記という形で、最初から最後まで一人称の小説として書いた方がよかったのではないだろうか。話の継ぎ目で、たまに現実の船の上に戻るのが、効果的とも思えなかった。 

闇の奥 (岩波文庫 赤 248-1)

闇の奥 (岩波文庫 赤 248-1)

 

 

56回目「ガンモ」(ハーモニー・コリン監督)

正直、全然面白くなかった。「面白くなさ過ぎて逆に面白い」という訳でもなく、純粋に面白くなかった。最後まで観るのが苦痛だった。こんな映画も珍しいと思う。全体的に変な映画だなぁという印象は持ったが、変であることが映画の長所になっているわけでもない。

どのシーンも微妙に不快で微妙に悪趣味だった。ものすごく不快でものすごく悪趣味なら、それはそれで評価できるが、そこまでも行ききっていない。

オハイオ州の小さな町を舞台に、そこで生活する人間(多くはティーンエイジャー)のどこか荒んだ日常を、断片的につなぎ合わせた映画とでもいえばよいだろうか。一貫したストーリーがあるわけではない。町全体の荒廃した感じは、とても上手く表現されていたが、評価できるのはそこだけという印象だ。

その荒んだ町の印象は、ドラッグ、暴力、いじめ、性的マイノリティーティーンエイジャーの性、フリークス、児童虐待、動物虐待、といったセンセーショナルなワードに全て依っている気がした。この映画は90年代に撮られた映画なので、当時はこういったセンセーショナルなテーマを映画に取り入れるのが新しかったのかもしれないが、今見ると手垢にまみれた感は否めないし、短絡的に過ぎると思う。

センセーショナルなものをテーマに設定するのは別に良いが、一つか二つに絞るべきだろう。多すぎると表層をなぞっただけの薄口な映画になってしまう。『ガンモ』はその失敗例だ。薄口であるということは、テーマに対する愛が無いということだ。

例えば、バロウズ中島らもの小説はドラッグを扱ったものが多いが、これらの作品からは作者のドラッグというものに対する愛情を感じる。愛情があるから、作品の中でドラッグを否定するにせよ肯定するにせよ、表層をなぞっただけではない深さがある。しかし『ガンモ』のドラッグ描写には愛情がない。「愛情」とは「興味」と置き換えてもよいし、「執着」と置き換えてもよい。創作する上での追い込みが足りない。

ガンモ』にはフリークスも出てくるが、やはり『ガンモ』にはフリークスに対する愛情がない。松尾スズキの『ファンキー』を観た後に『ガンモ』を見ると、やはり『ファンキー』には身障者に対する愛情を感じる。対して『ガンモ』は単に画面作りのためだけに身障者を使っていると感じざるを得ない。安易さだけが残る。愛情を持つことは、実際に映画に出演した身障者に対しての最低限の礼儀であろう。監督はせめてもの罪滅ぼしに、障碍者施設でアルバイトでもボランティアでもすればよいと思う。冗談ではなく、いい経験になるだろう。経験が増すと、作品にも深みがでるだろう。当時のハーモニー・コリンはまだ若かっただろうから、自分が偉そうにアドバイスしておいてやる。

性的マイノリティーについても同様だ。愛情がない。アルモドバルの映画や『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』の方が性的マイノリティーに対して愛情がある。『ガンモ』を観るくらいなら、こちらをオススメする。

あと、猫だ。詳細は省くが、この監督は猫に何か恨みでもあるのだろうか。さすがに本物の猫ではなく作り物だと思うが、猫好きの自分はちょっと許せない。映画の中の唯一の良心といってよい、あの猫好きの姉妹が居たたまれない。監督は『きょうの猫村さん』でも読んで動物愛護の精神を養うべきだ。

色々難癖は付けたが、この映画はけっこう色んな人に評価されている。自分は、全くこの映画の良さが分からなかったが、それは自分のセンスにも問題があるかもしれない、と一応のフォローを入れておく。

以上

 

ガンモ [DVD]

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  • 発売日: 2003/11/27
  • メディア: DVD
 

 

 

55回目「世にも奇妙な漫☆画太郎」(漫☆画太郎:集英社コミックス)

ウンコしてケツを拭いたら紙が破れて指にウンコが付いた、なんて経験は誰でも恐らく2,3回はあると思う。キムタクやGACKTにだってあると思う。過去にはなくても未来には充分起こり得るとも思う。しかし、人は普通、そんな失敗談をあまり語らない。なぜ語らないかというと、そんなことを自分からわざわざ言う必要などどこにもないからだ。そして、そんな汚い話は別に誰も聞きたくないからだ。話自体に需要も供給もない。誰も望んでいないのである。

漫☆画太郎の凄さは、このような誰も望んでいないであろう話を徹底して描き、あまりの下品さに最初は眉を顰めていた読者をも強引に笑わせてしまう力業にあると思う。これは並大抵のことではない。実際の内容は、冒頭に自分が紹介した例なんかよりも数段えげつない。ウンコ、おしっこ、おなら、ゲロといった小学校低学年レベルの下ネタに加えて、少年誌に連載していた時よりも読者の年齢層が上がった為か、セックスにまつわるエロネタも時折、投入される。唯一無二の狂ったタッチなので、エロネタも全く性的興奮を呼び起こさないが、逆に安心して大笑いできる。

漫☆画太郎の漫画を読んでいると、自分が信じている価値観を根底から揺るがされる感覚に陥ってしまう。人は誰しも程度の差はあれ「他人に良く思われたい」と考えながら生きている。モテたいと思う。だから格好付ける。背伸びする。勉強したり服装に気を使ったり知識を増やしたり、といった努力をする。ナルシシズムは全て、この「他人に良く思われたい」という原理に依るものだ。とりわけ、作家とかアーティストといった芸術を生業としている人はこの傾向が他の人に比べて強いように思う。それは悪いことではない。そのナルシシズムが原動力になって、結果的に面白い作品・他人に評価される作品を産み出せれば良いからだ。事実、それで成功している作家も沢山いる。ナルシシズムは自己愛と訳されるが、つきつめると他者に対する奉仕になるのではないだろうか。自分は正直嫌いだが、相田みつをとか西野ナントカ氏(名前は忘れた。プペルの人)などは単純なナルシシズムでもって多くのファンを獲得しているのではないだろうか。自分は恥ずかしくてあそこまで露骨にできない。揶揄するつもりは全くない。ある意味役者なのだろうと思う。

太宰治もナルシストだが、相田みつをとか西野ナントカ氏よりも少し捻くれている。太宰は「格好付けることは格好悪いから格好付けてない風を装っている格好付け」だ。同じように捻くれている人が沢山いるから、現代でも太宰は人気なわけだ。捻くれていて面倒くさいが、自分は何故か相田みつをよりも太宰の方に好感が持てる。

そして、漫☆画太郎である。漫☆画太郎の漫画には、ナルシシズムが全く見当たらない。ナルシシズムの欠片もない。「他人に格好良く思われたい」という思いが少しでもあれば、あの世界観は描けないだろう。「他人に格好良く思われたい」というのは作家個人の低俗な思いだ。その思いを全て放棄し、あそこまで低俗な作品を描く。読者の目なんか気にせず、自分の描きたいものを追求し、そして結果的に「漫☆画太郎って格好良いなぁ」と読者に思わしてしまう。とても贅沢な才能だ。

この『世にも奇妙な漫☆画太郎』はオムニバス形式なのだが、内容に殆ど触れていないので、自分の好きな話を一つ紹介する。

1巻に収録されている第5話「ブスジャック」という話が一番面白かった。バスの中で青年が女性を人質に取ってバスジャックをする。人質の女性は恐ろしく不細工だ。青年は女性にナイフを向けている。女性のポケットに入っていた携帯電話が鳴る。青年が出ると女性の彼氏からだった。青年は電話口の彼氏に向って「今からお前の彼女をぶっ殺す」と叫ぶ。すると彼氏は「他に好きな人ができたから、煮るなり焼くなり好きにしろ」と返す。彼氏の言葉を聞いてブチ切れた女性は携帯を床に叩きつけ破壊する。そして、青年のナイフを奪い取り、「失恋したから自殺する」と叫ぶ。まさかの展開に焦った青年は、「早まってはいけない。生きていれば、きっと新しい彼氏もできる」と説得するが、女性は「私みたいなブスに二度と彼氏は出来ない」と泣き叫ぶ。そんな女性に対して、青年は「だったら僕と付き合って」と告白する。青年は「実は僕も今日、彼女にフラれた。それでヤケになってバスジャックをした」と説明する。女性は青年の告白にOKする。カップルが成立する。車内で拍手が起こる。青年はバスの運転手に「ムラムラしてきたから最寄りのラブホテルの前で降ろして」と頼む。運転手は、かつて自分の女房と利用したラブホテルを紹介する。そのホテルで愛し合ったカップルは一生別れないというジンクスがあるらしい。そのおかげで、運転手と女房も30年間別れず連れ添ったらしい。運転手がそのホテルの前までバスを走らせると、ホテルの入り口で運転手の女房が、別の男といちゃついていた。ショックを受けた運転手は、そのまま妻と男をひき殺し、ホテルにバスが衝突し、バスが爆発して乗客も女性も青年も運転手も女房も男も全員死ぬ。と、いうお話。

あらすじを真面目に説明するだけで自己嫌悪になりそうだ。恐ろしいのは、ここに登場する犯人の青年と、運転手、乗客の顔、そしてバスの外観は全て同じ絵の使いまわし。あきらかに読者を舐めているけど、こんな手抜きが許されるのは、漫☆画太郎くらいだ。一方、ブサイクな女性の顔は、めちゃくちゃ描き込んでいるし、ものすごく好き嫌いが分かれるだろうが、この画力も素晴らしい。

以上

 

 

54回目「プールサイド小景・静物」(庄野潤三:新潮文庫)

今年は庄野潤三の生誕百年であり、よく行く書店では特集が組まれていた。書店の片隅に「庄野潤三生誕100年」と書かれたPOPが飾られてあり、そこに庄野潤三の幾つかの本が平積みされていた。別に大層なものではないが、興味を引いた。それで一番目立った置き方をされていたこの文庫を購入してさっそく読んだわけである。

表題作含め、7つの短編が収録されている。以下に個別の感想を記す。

①舞踏

不倫の話。夫の方が不倫する。不倫相手は、自分より一回りも年下の少女。夫の身勝手さが腹立たしい。同時に妻の健気さがやるせない。内容は、昨今の芸能人の不倫スキャンダルと殆ど変わらない。恐ろしく通俗的だ。妻が行きたがっていたコンサートに不倫相手と行くことになり、多少の後ろめたさを感じながらも、自分自身に言い訳しながら納得する様子など、夫の描写が「バカな男」そのものである。とてもベタな描き方だ。「文学は人間を描く事」とすれば、この短編は文学ではない・・・、というわけでも実はない。ここに描かれる人物は夫婦ともに古いタイプの人間で、それは作者自身が古いタイプの人間だから、描く人間が古くなるのだ、と結論付けようとしたが、案外、そんな読み方をする自分が古いのかもしれない。「文学は人間を描く事」という考えがそもそも固定観念であり、頭でっかちなのかもしれない。もっと気楽に読めば、ろくでなしの夫にムカつき、健気な妻に同情し、総じて楽しく賑やかな読書体験ができる。

プールサイド小景

表題作であり、作者はこの短編で芥川賞と獲った。これも『舞踏』と同じく夫婦が描かれる。会社の金を着服しバーに通っていた夫。会社にばれて夫はクビになった。仕事が無くなったため、リフレッシュも兼ねて子供たちが通う学校のプールで泳いでいる。プールサイドからは、夫がかつて通勤していた電車が走る光景が眺められる。タイトルはここから来ている。ラストの描写は哀愁が漂っていて少し寂しい。情けなくだらしない夫と、そんな夫を支える健気な妻は、『舞踏』の夫婦と似ているが『プールサイド小景』は、もう少し夫婦の感情の機微が繊細に描かれている。バーの話を聞こうとする妻に対して、全てをさらけ出し告白するフリをしながら、絶対に話の確信に触れない夫の卑小さと、その卑小さの奥に女の影を察知し戸惑う妻。夫婦両方の心理がとてもキメ細かく書かれており面白かった。

③相客

人物の関係が少しゴチャゴチャしており、若干分かりづらかった。「私」「兄」「長兄」「弟」「父」が出てくる。その中の「兄」にまつわる話なのだが、「兄」と「長兄」が紛らわしかった。これは、自分の読解力の問題だ。冒頭のエピソードは「私」が「弟」から聞いた話であり、本編とは関係ないのだが、その後、その話から「私」が思い出したエピソードが語られ、二つの伝聞が終った後に「兄」の話になる。つまり、分かりにくかった。内容は割愛するが、汽車の中での刑事と客のやりとりで刑事が言った言葉に対して「私」が感じた戦慄が印象に残っている。なんのこっちゃ。

④五人の男

タイトルの通り、5人の男の話である。この5人の男が実在の人物なのかフィクションなのかは分からない。一応、作者が関わり合いを持った男たちという体で書かれている。それぞれの話が独立しており、5人の男がどこかで関連しているという訳でもない。本当に、5人の男のそれぞれの人物紹介で終っている。3人目の男が一番面白かった。お喋り好きの男で、家にやって来ては色々な武勇伝を語るのだが斜視のため周りで男の話を聞いている人は、自分に向けられて話しているのか分からず相槌を打つのが難しい、みたいな部分が少し毒もあり面白かったのだ。

⑤イタリア風

日本人の夫婦が、アメリカ旅行中に、かつて電車の中で知り合い友達になったイタリア人夫婦に久しぶりに会いに行くという話。日本と外国の家族観や価値観などが語られているが、人と人が久しぶりに邂逅する際のイザコザや誤解、変な気を遣ってしまう感じが共感できる。自分は別に対人恐怖症ではないのだが、外国人・日本人・異性・同性、関係なく「久しぶりに会う」という事に対してとても緊張する。いくら気心の知れた仲の良い人でも、何か緊張してしまうのだ。こんな自分だからか、電話口の相手の口調を過剰に気にしてしまう主人公に共感を覚えたのであった。

⑥蟹

一風変わった漁師町の宿屋。何が変わっているのかというと、部屋に「セザンヌ」とか「ルノワール」といった画家の名前が付いている。そこに泊まる数組の家族の話。歌とかクイズとか生き物を通じて、別々の家族に薄く微かな交流が生まれる。大人たちの交流は常識があり遠慮があり距離がある。でも子供たちの交流は、遠慮も距離もない。とても純粋で無垢な交流だ。とても平和で控え目な短編で、収録作品の中では一番好きだった。

静物

作者と自分は祖父と孫くらいの年齢差がある。でも、この作品で描かれる家族の一コマは、まるで自分の子供時代の断片が書かれているかのように錯覚した。ある家族の、本当に何でもない風景が切り取られて繋がっているだけの短編なのだが、この懐かしさはなんだろう。優しさと懐かしさと寂しさとノスタルジーを同時に味わいながら、後味のさっぱりした読後感があった。

以上

 

プールサイド小景・静物 (新潮文庫)

プールサイド小景・静物 (新潮文庫)

 

 

53回目「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」(ヨルゴス・ランティモス監督)

この映画はヤバいと聞いていた。「ヤバい」とは色々な意味を含む。単純に面白いという意味もあるし、その逆もある。多くの人のレビューを読んでいると、どうもこの映画は観た人を不快にさせるという意味でヤバイらしい。

ミヒャエル・ハネケとかラース・フォン・トリアーのようなテイストの映画なのかな、という先入観を持って観た。ある意味、ハードルが上がった状態で観たからだろうか。それ程、不快な気分にはならなかったし、それ程「ヤバい」とも思わなかった。丁寧で繊細に作られた佳作といった印象を持った。

外科医の男が主人公。外科医には、妻と二人の子供(長女と長男)がいる。家族4人で郊外の豪邸に住んでいる。外科医には、家族とは別に頻繁に会っている少年がいる。この少年は、外科医が過去に手術を失敗して殺してしまった男の息子。罪悪感からなのか、外科医は少年と食事をしたり、時計をプレゼントしたりする。

ある日、外科医はこの少年を家に招く。少年は外科医の娘・息子とも仲良くなり打ち解ける。しかし、少年が家にやってきた日から、外科医の家族に次々と不可解な現象が起き始める。息子が突然歩けなくなったり、娘が突然歩けなくなったり・・・。少年は外科医に「先生意外の家族は、やがて全員歩けなくなり、目から血を流し、最終的に死ぬ」などと言う。少年に怒りと不気味な何かを感じた外科医は少年を監禁し・・・。簡単に言えば、以上のような粗筋だ。

映画全体が静かで不気味な雰囲気に覆われている。何気ない会話の中にも不気味さが宿っている。とりわけ、少年の不気味さは際立っていた。静かで落ち着いているのだが、無理矢理にでも家族の関係に入り込もうとする図々しさと太々しさは、観る者の神経を逆撫でしてくる。友好的に見えて敵意と悪意を存分に含んだ態度とセリフは、中々に挑発的だ。この辺りは確かに不快だ。不快だが、目が離せない。不快に感じながらも、最初から最後まで緊張感が途切れることなく観られたのは、監督の丁寧な演出に依るものであり、すごい手腕だと思う。

この『聖なる鹿殺し』には二種類の恐怖がある。この二種類の恐怖が、上手く混ざり合っていないのではないかとも思った。

例えば、日本のホラーである『リング』は「呪いのビデオ」を見た人が2週間後に死ぬという話である。「呪い」という霊的・オカルト的な恐怖で映画が成り立っている。「呪い」という科学では説明できないものによって命を奪われる理不尽さが怖い。ビデオを見てしまったが最後という逃れられない恐怖。これが霊的・オカルト的な恐怖である。『シックスセンス』とか『アザーズ』なんて映画も、この手の恐怖を与えてくれる良質なホラー映画だと思う。

一方、人間の心の闇に焦点を充てた恐怖もある。サイコサスペンス的な恐怖である。ミヒャエル・ハネケの『ファニー・ゲーム』という胸糞映画があるが、この映画のキャッチコピーは「人間が一番怖い」である。ゲーム感覚で人を殺す映画で、なぜそんな残酷なことをするのかという動機はない。敢えて言えば「楽しいから」だ。そして、殺人の当事者たちは「心の闇」なんて言葉すら、せせら笑って小馬鹿にするような、そんな不快な怖さがあった。

『聖なる鹿殺し』は、手術の失敗で父親を殺された少年が、恨みと悪意によって外科医の家族を追い詰め、外科医に自分の子供を殺すように仕向けていく話で、少年の薄気味悪さや、「家族の絆」などという言葉の幻想なども含めて、後者の恐怖(サイコサスペンス的な恐怖)に彩られている。しかし、その手段は唐突に歩けなくなる、最後は血の涙を流して死ぬ、といった原因不明の霊的・オカルト的な怖さである。

この緊張感を維持しつつ、どちらか一種類の恐怖のみで描いて欲しかったのが、不満だった。

監督のヨルゴス・ランティモスギリシャの鬼才と言われているらしい。最近では『女王陛下のお気に入り』を撮った人だ。それ以外では『ロブスター』と『籠の中の乙女』を撮っている。今回の『聖なる鹿殺し』も含めどの映画も少し変な映画だった。不可解な世界観が好きな人はランティモスの映画にはまるだろう。

不快という意味では個人的に『籠の中の乙女』が一番不快で、嫌な映画だった。あまりオススメはできない。オススメできないが、『籠の中の乙女』という映画の後半、二人の娘がダンスをするシーンがあり、そのシーンは少しお笑い寄りで、ガキの使いのハイテンションショーを見ているような感じになった。あそこだけ、少し笑ってしまった。要するに、変な映画なのであった。