松本雄貴のブログ

本。映画。演劇。旅。

52回目「ダブリナーズ」(ジェイムズ・ジョイス 柳瀬尚紀訳:新潮文庫)

先日、祖母が亡くなった。通夜の前日、自分は祖母と一緒の部屋で寝た。葬儀会館に祖母を一人で残せないため、自分が祖母と一緒に留守番をしたのだ。祖母が眠っている横に布団を敷き、一夜を明かした。文字通り、死者に寄り添ったのだ。

祖母との思い出に浸り、懐かしんだ。同時に、自分のすぐ横に死者がいることに対して少し恐怖も感じた。自分は普段寝付きの悪い方だが、その晩は意外に安眠できた。祖母とは全然関係ない夢を見た。どんな夢だったか、断片しか覚えていないが、その夢の中に祖母は出てこなかった。朝、葬儀会社の人がやってきて「よく眠れましたか?」と聞いた。「はい」と答えたあと、少し変な気分になった。

ジョイスの『ダブリナーズ』の一編に、自分も迷い込んだ気がしたのだ。

書評でも何でもないが、書いておきたくなったので。

 

ダブリナーズ (新潮文庫)

ダブリナーズ (新潮文庫)

 

 

51回目「アメリ」(ジャン=ピエール・ジュネ監督)

アメリ』は、当たり前だが「アメリ」という名前の女性が主役の映画だ。

アメリ』は公開当時、一大ブームになったらしい。詳しくは知らないのだが、アメリのファッションを真似したり、生活スタイルを真似したり、劇中でアメリが食べるクレームブリュレが流行ったり、いわゆる「アメリ現象」なるものが日本でも20代から30代の女性を中心に巻き起こったらしい。

公開当時、自分は高校生だった。この「アメリ現象」が、自分の周りでも起こっていたのかは、覚えていない。リアルタイムでも観たが、「お洒落な映画だな」と高校生ながら思っただけで、内容は殆ど忘却していた。今回、約20年ぶりに再見したわけだが、この映画が当時ブームになったというのは何となく分かる気がした。それも、老若男女問わず広く浅く流行るのではなく、ある一定の層に深く支持される類の映画だろうと思った。その一定の層に受けるポイントを上手く押さえている映画だと思ったのだ。最初から戦略的にその層に受けるように撮ったのか、偶然受けたのかは不明だが、結果的にブームになったのだから強かですごい映画なのだと思う。

「一定の層」とはどういう層か。「インテリ」とか「ブルジョア」といったものに憧れを抱いている人達、もっと平たく言えば「アート風」とか「映画通」を気取りたい人達だ。『アメリ』はそのような人達に受ける映画だと思う。こういう事を言えば嫌味に聞こえるかもしれないが、別にこのような層に属する人達を否定しているわけではない。自分自身も映画通を気取りたい人間だし、インテリと思われたい人間だし、マニアックな映画の知識を披露して他人に一目置かれたいと考えている、せせこましい人間だ。要するに、自虐と自戒の念を込めて書いている。なので、怒らないで頂きたい。

そんなフォローはさておき。

アメリ』は、まず映像がとてもお洒落だ。センスがある。話のテンポもいい。ポップだ。難解で近寄りがたいフランス映画のイメージを払拭してくれる。といって、分かりやすい平板なストーリーとか、勧善懲悪の話だと映画通にはあまり響かない。そういう分かりやすい映画を無意識に見下しがちなのが、映画通の厄介なところだが、『アメリ』は適度に毒がある。下ネタもあるが、卑猥になり過ぎず、かといってソフトにもなり過ぎず、お洒落な感じに処理している。この塩梅が絶妙で映画通の喜ぶポイントを押さえている。ブラックユーモアのブラック加減も、これくらいがちょうどいい。あまりに重いと敬遠されるし、軽すぎるとやはり神妙な顔で映画を語りたがる映画通には物足りない。ただ、その割には冒頭で母親が即死するシーンや、いじめのシーンなどは悪趣味で、若干、『アメリ』の世界観から逸脱していると思うが、全体的にお洒落に仕上がっていれば、映画通は気にならない。全体の雰囲気が良ければ、小さいことは考えず目をつぶるのが、この映画を支持する層の特徴だからだ。要するに『アメリ』を支持する層は、考えることが苦手なのかもしれない。他人にインテリだと思われたいくせに考えるのは嫌いなのだ。だから、いつまでもインテリ風なだけで本当のインテリにはなれないのだ。自分がそうだから、よく分かる。

ここまで『アメリ』をどうにか褒めようとしたが、途中で批判じみてきた。やはり、自分は『アメリ』のような映画は好きになれない。どうしても「見た目だけ」と思ってしまう。「見た目」が良い事は間違いなく素晴らしい長所ではあるが、『アメリ』には中身がないように思うのだ。中身に惹かれるものが、『アメリ』には殆どなかった。例えば、『アメリ』はナレーションが多すぎる。このナレーションが本当にうざかった。アメリの内面や行動も、殆どナレーションで説明している。本来、演技やセリフで丁寧に見せないといけない部分まで、ナレーションですましている。それも、いかにも気の利いた事を言っている風のナレーションで、鼻に付く。こういったところが、手抜きのようにしか思えなかった。そして「映画通は見た目を多少、お洒落にしておけば細かいところは気にならないだろう」と侮られているようで、居心地が悪かったのである。

映画を観る時の自分自身の姿勢について考えさせられた映画であった、という点では見て良かったと思う。

蛇足だが、同じ監督が撮った『デリカテッセン』という映画は結構好きです。

以上。

 

アメリ(字幕版)

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  • 発売日: 2018/12/14
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50回目「カンガルー・ノート」(安部公房:新潮文庫)

『カンガルー・ノート』を最初に読んだのは中学生の頃だ。途中から意味が分からなくなり、読了するのが苦痛だった記憶がある。その後、安部公房の小説は『砂の女』『他人の顔』『飢餓同盟』『箱男』『燃えつきた地図』などを読んだ。これらは、『カンガルー・ノート』と違い、途中で意味を見失う事はなかった。中でも『砂の女』は、とてもスリリングな小説で、これまでに数回、繰り返して読んだ。『飢餓同盟』『他人の顔』は、一度しか読んでおらず、もう殆ど覚えていないが、『砂の女』同様、とても興奮し一気に読んだことを覚えている。『箱男』『燃えつきた地図』も難解ではあったが、楽しめた。

つまり、『カンガルー・ノート』は、自分が読んだ安部公房の小説で唯一、肌が合わないと感じた作品だった。ゆえに、中学生の頃に読んで以来、再読することはなかった。

そんな『カンガルー・ノート』を、この度、再度読み返したのは、特に理由があってのことではない。なんとなく読んでみようと思ったに過ぎない。約20年ぶりに読んだわけだが、相変わらず「意味が分からない」と思った。しかし、中学生の頃と違い苦痛は感じなかった。恐らく、中学生の頃は「意味が分からない」ものを許容するだけの度量が、自分の中に無かったのだ。それは、経験と語彙力に基づくものだろう。意味を問い、意味を考えることも重要であるが、意味を考えることを放棄してこそ楽しめる作品も数多ある。概ね、シュルレアリスムとは、言葉から意味を削ぎ落した先にある原風景を表現する芸術だと、薄学ながら考えている。意味を削ぎ落した結果、限りなく純粋で虚無的な世界が産まれる。経験も語彙も乏しい中学生に、この虚無の面白味を理解することは、そもそも無理な注文なのだ。

ただし、一般的に安部公房の小説はシュルレアリスム的とされるが、虚無的な感じはない。『カンガルー・ノート』は作品全体に情緒・情感が漂う。もっといえば、主人公の男の悲哀をも感じ取れる。寧ろ、中学生の自分が『カンガルー・ノート』の意味を理解できなかったのは、作品の奥にあるこの悲哀を嗅ぎ取ることができなかったからではないだろうか。

『カンガルー・ノート』は、夢の話だ。それも一人の男が死ぬ直前、刹那のうちに見た夢だと自分は解釈している。さらに自分の解釈を述べると、男は神経症を患っているように思えた。それが故に社会から孤立してしまった男。強迫観念に苛まれた挙句に、自殺してしまった男。その自殺の直前に見た夢の話。目の無い死んだ母親、知恵遅れの少女、採血をする看護婦などが出てくるが、それらはいずれも男の性的願望、性的コンプレックスの投影のように思う。後ろめたい願望を、夢という形で死ぬ直前に成就した男の記録を描いた小説なのだと、自分は結論付けた。だから、後味の決して良い小説では無いし、一見バッド・エンドのように見えるが、実は、最後に自身の願望を成就できたと思うと、あながちハッピー・エンドなのかもしれない。

真偽のほどは知る由も無いが、人は死ぬ直前、これまでの人生が走馬灯のように脳裏に浮かぶらしい。夢の話は、とりとめがない。夢なのだから、現実では起こり得ない荒唐無稽なことも起こる。だから、意味が分からなくて当然と言えば、当然なのだ。しかし『カンガルー・ノート』は、ただ単に荒唐無稽なイメージを羅列しているわけではない。話が空中分解せず、読者をぎりぎり小説の世界に留まれるように工夫されている。この工夫に舌を巻く。例えば、「カイワレ大根」がそうである。『カンガルー・ノート』には、カイワレ大根が出てくる。脛にカイワレ大根が生えてしまった男が病院に行く、というのが話の発端である。その病院のベッドで横になった辺りから夢の中に移行するのだが、その後も話の要所要所でカイワレ大根が出てくる。「脛にカイワレ大根が生える」という設定など無くても『カンガルー・ノート』という小説は成立するし、寧ろ、必要のない設定なのではとも思うが、さにあらず。このカイワレ大根が出てくるタイミングが絶妙なのだ。一歩間違えれば滅茶苦茶になって雲散霧消しかねない夢の話を、カイワレ大根の描写を要所に挟むことによって読者を繋ぎとめている。いわば接着剤としての役割を担っている。

『カンガルー・ノート』は7章からなる。章ごとに場面が変わる。これら一つひとつの章が、まったく脈絡なく続いているのかといえば、そういうわけではない。場面転換が唐突で、病院のベッドから夢に移行した瞬間も、その境目が分かりずらいし、レールに乗って移動するベッドに始まり、烏賊爆弾など、作中に出てくる小道具は突拍子もないし、ここら辺が夢の話であることから生じる「分かりにくさ」なのだが、注意深く読むと、物語としての体裁はきちんと整っている。「意味が分からない」と書いたが、案外、意味は分かるのだ。

もう少し感じた事を書くと、ピンク・フロイドの『エコーズ』や『鬱』が出てくるのだが、この小説の世界観は、キング・クリムゾンの『21世紀の精神異常者』と『ムーン・チャイルド』の方が合っているのでは、と思った次第だ。

以上

 

カンガルー・ノート (新潮文庫)

カンガルー・ノート (新潮文庫)

 

 

49回目「ラストエンペラー」(ベルナルド・ベルトルッチ監督)

半藤一利の追悼という訳でもないが、『昭和史 1926-1945』(平凡社ライブラリー)を読んでいる。その最中に観たのが、ベルナルド・ベルトルッチの『ラストエンペラー』だ。映画の主役である愛新覚羅溥儀は、『昭和史』の最初の方に紹介される。『昭和史』は、あくまで日本の昭和がメインであるため、溥儀が満州のファースト・エンペラーになった経緯がさらっと説明されているが、映画の方は、幼少期に清国のエンペラーに即位した後、少年時代の紫禁城での生活、結婚、日本との接触満州国のエンペラー即位、終戦、捕虜、収容所、恩赦、自由、最後はかつての紫禁城跡に訪れノスタルジーに耽る、という一生を、回想を挟みながら順序立てて描いている。史実との相違が多少あるらしいが、自分は特に気にならなかった。

歴史が好きな人は、『昭和史』と『ラストエンペラー』を比べてその差異をあげつらうのも一興かもしれない。歴史を扱う映画には、必ず「史実と違う」という批評が付きまとう。もしくは「歴史認識が監督の主観だ」という類の批判もある。映画でも小説でも音楽でも、作品を産み出すという行為は、たとえそれが興行収入を第一に目論んだものであっても、或は、大衆迎合主義的なものであっても、もっぱら作者の主観による作業なので、「監督の主観だ」という批判は、的を射ていないようにも思う。技術が明らかに伴っていない作品は論外としても、差し出された主観に、上手く乗れれば面白いだろうし、乗れなければ、自分とは合わなかっただけだ。それでいいと思う。

一映画好きに過ぎない自分は、完成品として出された物語が面白ければ満足である。

ラストエンペラー』に話を戻すと、紫禁城のセットは、確かに目を見張るものがある。荘厳で重厚な雰囲気を、映像と音楽で壮大に再現している。また、溥儀という人物は大変興味深い。物心が付いた時から、一歩たりとも紫禁城の外に出ることを許されなかった。そんな不自由で閉ざされた世界の中でも、彼はエンペラーとして物質的には何不自由のない生活が保障されている。それは実体のない権威によるものである。5歳に満たない子供には、当然、実務能力も政治手腕もない。生物学的には、我々と同じホモ・サピエンスだ。凡人より突出したカリスマ的能力ではなく、根拠のない権威だけを最初から賦与されているのだ。そして、その根拠のない権威を盲目的に信じている、周りの取り巻きたちの滑稽さ。映画の前半は、そんな特異に過ぎる環境の中で育つ溥儀を描く。非常に興味深い子供時代で、こちらの好奇心を刺激してくれる。さらには、数年後、彼は満州で最初で最後の皇帝になる。日本の都合だけで作られた満州という国で、またもや実態のない権威のみを与えられるのだ。満州は傀儡国家と言われるが、溥儀の半生そのものが、自覚の無いまま時代に翻弄される操り人形的で興味深い。

史実との相違や、歴史の主観という瑕疵があっても、以上のような観客を引き付ける要素があるため、『ラストエンペラー』は観て損のない映画に思えた。

というように自分は、基本的には何をどのように描いても、結果的に面白ければよいと思っている。「面白ければ」というのは、別にストーリーだけに限らない。映像の美しさでも、俳優の演技でも、音楽のカッコよさでも、何かこちらを引き付けるものがあれば、映画を観て良かったと思える単純な人間である。昨年からNHKで放映されていた『麒麟がくる』でも、架空の人物が執拗に出ていて大河ドラマの世界に浸れないという意見が多かったらしいが、自分的には、本木雅弘斎藤道三染谷将太織田信長が見れただけで大満足であった。

そんな自分だから、『ラストエンペラー』も楽しめたのだが、一つだけ納得できない部分があった。

それは、言葉の問題である。『ラストエンペラー』では、登場人物がほぼ全員、中国語ではなく英語を喋る。溥儀は幼少の頃から英語をネイティブのように喋っているし、その他、紫禁城に従事している役人や乳母まで、全て中国語は一切話さず、英語オンリーなのだ。

映画はフィクションの為、史実の相違などは気にならないが、言葉をまるまる変えてしまうのは、何かに対する冒涜のように思えたのだ。その「何か」が何なのかは、説明すると長くなるので割愛する。

 

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48回目「ムカデ人間」トム・シックス監督

観る前は「どうせクソみたいな映画だろうなぁ」と高を括っていたが、見終わった後、「意外と面白かった」と思ってしまった。ただ、この手の映画の場合「意外と面白かった」というのは褒め言葉にはならない気がする。或いは、一番言って欲しくない言葉なのではないかとも思う。映画の作り手側からすれば、当初の予定通り、「糞映画だ!見なきゃよかった!」と言われる方が、名誉なことなのではないだろうか。

「おぞましいさ」「気持ち悪さ」「変態さ」或いは、「馬鹿馬鹿しさ」を徹底的に追及し、突き抜けた先にある狂気を感じる映画は、他にも沢山ある。そのような映画は、監督の狂気に素直にひれ伏すと同時に、人には決して勧めない。鑑賞した事実を他人に大っぴらに言うことが憚られる。「こんな映画が好き」と言うと、人格を疑われそうな気がするので、こっそりと一人で観るのが常である。一例を挙げると、パゾリーニの『ソドムの市』なんかが、それにあたる。このブログで言った時点で、元も子もないが、自分は別に『ソドムの市』が好きな訳ではない。ただ、狂気という尺度で比べると『ムカデ人間』は『ソドムの市』に遠く及ばない。

事実、『ムカデ人間』の場合、職場の同僚の女性が「彼氏と一緒に見たけど、めっちゃ気持ち悪かった」と言っていた。職場で話題に上るという事は、その程度の気持ち悪さであるという証明に他ならない。お茶の間とか、職場の休憩室とか、ランチの時間とかに、『ソドムの市』が話題になることはまずないだろう。あるとすれば、そこは、カルト映画について議論するような特殊な空間である。

故に、『ムカデ人間』は表面上は確かに気持ち悪いが、娯楽映画として友達と一緒に見ても充分に楽しめる映画、或いは、「怖いもの見たさ」という人間の欲求を、良い具合に満たしてくれるB級映画ではないだろうか。要するに、安全な映画なのだ。

「3人の人間の口と肛門を繋げてムカデ人間を作る」という内容は、確かに気持ち悪い。しかし、その発想じたいは、かなり凡庸なものに思う。「気持ち悪い映画を撮りたい」と思った時に、わりと早い段階で思い付くようなアイデアだ。狂っているように見えて健全な発想である。

そんなことよりも、シナリオが意外にしっかりとしており、そこを評価したい。起承転結がはっきりしており、スピード感がある。また、この映画に出演した役者にも敬意を表したい。特に、ムカデ人間の真ん中とお尻を演じた二人の女優。普通は、こんなの絶対にやりたがらない役だが、きちんと演じている。日本人の俳優も出ており、こちらはムカデ人間の頭になるのだが、演技は少々、大根に思えた。

後、この映画にはパート2とパート3がある。パート2は、映画『ムカデ人間』を観た男が「自分もムカデ人間のような事をやってみたい」と考えるところから始まるらしい。いっちょ前にシリーズを跨いだメタ要素を取り込んでいるのである。シナリオの手が込んでいるのである。そういうのも含めて、意外と面白かった。

以上。

 

ムカデ人間 (字幕版)

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  • 発売日: 2013/11/26
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47回目「死の家の記録」(ドストエフスキー著 工藤精一郎訳:新潮文庫)

囚人の生活とか刑務所内の環境とかは、一般人にはなかなか触れる機会がない。時折、囚人に対する虐待や暴行、さらには、それによる囚人の死亡などのニュースを耳にすることがある。その度に、刑務所という場所に対して負のイメージを持ってしまう。ニュースを聞いた瞬間は、刑務所内では虐め・暴力・虐待などが日常的に行われている劣悪な環境なのだろうなぁ、堅気の人間には耐えられないだろうなぁ、酷い所だなぁと思ってしまう。

しかし、よく考えてみると、刑務所内で囚人に対する非人道的な事件が起こる確率は、ごくごく珍しいことだと分かる。というのは、珍しいからこそ事件としてニュースで扱われるのであり、非人道的行為が自明のものとして日常的に発生しているのであれば、ニュースにはならない。原則ではなく例外だから事件になるわけだ。そして、そのような例外的なものに対して、「ああ、この(一応)民主主義の発達した現代の日本で、このような陰惨な事件が起こったのか・・・痛ましいな」と暗い気持ちになるわけである。

つまり、現代の日本の刑務所における囚人の生活というのは、例外的に虐待などの悲劇的な事件が起こる可能性はあるが、最低限の人権は保障されており、我々のような外野が「非人道的だ!」と憤るほど悲惨な場所ではないと想像できる。もちろん、罪を償う為の場所であるから、娑婆に比べると時間的自由・空間的自由は著しく制限されていることも周知の通りだ。間違っても、自ら進んで入りたいと思うような場所ではない。

というのが、現代の日本の刑務所に対して自分が持っているイメージだ。では、『死の家の記録』の舞台である19世紀のロシアの刑務所はどうだろうか。19世紀である。「思想」が理由で逮捕されるような時代である。読む前は、今の日本では「あってはならない事件」としてニュースで報じられるであろう、上記のような非人道的なことが日常的に起こっていたのだろうと想像した。裏に書かれたあらすじも、この監獄がいかに地獄のような凄惨な場所であったか、という部分を強調している。当然、読者である自分もそこに期待して読む。

かなり長い小説で、読了するのに約一か月掛かったのだが、苦労して読んだ割に、肩透かしを食らった感じがした。部分的には面白い個所もあり、読み入ってしまうのだが、全部を読み終わった後に残るのは「イマイチ」という感想と、徒労感であった。

しかし、せっかく一か月も掛かって読んだのだから、どの点が自分には合わなかったのかを考えてみる。

死の家の記録』は、ドストエフスキーが、実際に思想犯としてシベリアに流刑にされ、監獄にぶち込まれた時の体験を元に書かれた小説だ。小説ではあるが「創作」というよりは、ドストエフスキーの観察力・洞察力・記憶力を駆使して書かれた事実の列挙というニュアンスの方が強い。その名の通りまさに「記録」なのだが、物語的な味付けも多分にされている。自分にはこの味付けが少々、クドかった。蛇足が多すぎるように思ったのだ。例えば、第2部の後半、唐突にある囚人が、なぜこの場所に収容されたのかを、隣で寝ている別の囚人に語りだすのだが、何かストーリーに関わる重要な事なのかと思いきや、ただの痴話喧嘩の話であったり、そして、その痴話喧嘩の内容が妙に入り組んでいて、小説の中で別の小説を読まされているような感じなのだ。恐らく、下らない理由で、自分の許嫁を実際に殺害してしまう男の短絡的で残虐な性格を描く事によって、監獄内の人物がどれほど異常であるかを表現しているのだろうが、翻訳の問題なのか、異常性よりも、単に「下らない話」という印象だけが残った。

また、全体を通して、登場人物のキャラクターの説明を延々と読まされているような感じがした。しかも、その性格に一貫性がないように思った。例えば、作中で、粗暴で狂暴な性格の持ち主などと評された人物が、ドストエフスキー本人の投影である主人公に、とても優しく接したりする。良い奴なのか悪い奴なのか分からない。また、無学で頭が悪い男と称された人物が、とても手先が器用だったり、監獄内の世渡りに長けていたりする。頭が良い奴なのか、悪い奴なのか分からない。混乱するのである。このように、無意味に長い部分、蛇足に過ぎる箇所がありすぎた故、読むのが苦痛であった。これが、『死の家の記録』を「イマイチ」と感じた第一の理由である。

また、自分が期待したポイントが「監獄の凄惨さ」であったことも大きい。『死の家の記録』は、あらすじにも強調されているように、どれだけこの監獄が悲惨な場所であったのか、そこを主題にしているように思うが、小説を読む限りは、それほど凄惨な感じもしないのである。囚人たちが恐れている鞭の刑(チケイと言うのだが、漢字変換が出てこない)も、別にそんなに痛そうとも思わない。囚人たちの人間関係も、例えば貴族出の囚人たちと、ポーランド人の囚人たちと、殺人などの罪を犯した純粋な囚人たちの間には、分厚い壁があり、純粋な囚人は、貴族出の囚人たちを毛嫌いしており、その人間関係がもたらす、不自由や凄惨さも語られてはいるが、別のシーンでは、彼らは結構仲良くやっているのだ。その様子は微笑ましくさえあり、随分と牧歌的だ。一緒に、芝居を作ったり、それを見たり、クリスマスが来るのを浮き浮きしながら待っていたり、「19世紀のロシアの監獄」から連想する凄惨なイメージとは、随分と程遠いのである。

同じ時期にBSで観たスピルバーグの『シンドラーのリスト』の方が、余程、凄惨で悲惨だった。

というのが、『死の家の記録』を読んで、イマイチと感じた理由である。

ただ、部分的には本当に面白く、ドストエフスキーの洞察力に何度も舌を巻いたのも事実である。

以上。

 

死の家の記録(新潮文庫)

死の家の記録(新潮文庫)

 

 

46回目「銀河」(ルイス・ブニュエル監督)

ブログは最低でも月に3回は更新しようと思っている。だから、月末近くになっても2回しか更新できていなければ、けっこう焦る。別にノルマがあるわけでもないし、自分の人生においてブログを書く必要性など特にないのだが、毎度の如く「早く書かなければ」という焦燥感に駆られてしまう。どうも自分は、昔から変に責任感が強い。やらなければいけない重要な仕事は、できるだけサボろうとするクセに、やらなくてもいい事、やっても仕方のないこと、得にも損にもならない下らないことに関しては、必要以上に真面目になってしまう。厄介な性格だと我ながら思う。

そんなわけで、今回はブログを書くためにわざわざ、DVDを借りた。これまでの自分のブログは、たまたま見たり読んだりした映画や小説で、「これはブログに書こう」と思った作品を取り上げていたが、今回は順序が逆である。「ブログを書かなくてはいけない」という思いが先行し、「ブログが書きやすそう」な作品を敢えて選びに行った。本来の批評の意味から見ると、とても不埒で不純な動機である。

そのような動機で観たのがルイス・ブニュエルの『欲望のあいまいな対象』と『銀河』である。2本を立て続けに観て、どちらかでブログを書こうと決めていたのだが、未だにどちらで書こうか決めかねている。「ブログを書くため」という明確な目的を持って鑑賞したにも関わらず、どちらの映画もなかなか、感じたことが文章化しづらい。

どちらもそれなりに面白かったが、分かりやすい面白さでいえば『欲望のあいまいな対象』で、よく分からないけど、なんとなく面白いのは『銀河』である。

『銀河』は、とくに後半からが本当によくわからない。初老の男性と中年の男性、2人が聖地巡礼をしている。その過程で様々な変てこな人に出会うロードムービー。簡単に説明すればそんな映画だ。全体的にキリスト教を批判しているというのは分かる。いや、批判というよりも小馬鹿にして茶化している感じだ。そして、その茶化し方が少し巧妙だ。キリスト教を直接的に批判するのではなく、キリスト教を批判した人物が、次の瞬間に酷い目に遭う。結果的に、異端者や批判者に寛容でないキリスト教の本性があぶり出される。観た人は、キリスト教は懐の小さい宗教だと思ってしまう。そんな感じの茶化し方なのだ。学芸会で可愛らしい女の子に「神を信じない者には呪いあれ」とサラっと、しかも可愛らしく言わせたり、なかなかに性格の悪い映画だが、マリリン・マンソンのような直接的で下品な感じはなく、知的なユーモアを少し感じた。まあ、キリスト教に帰依している人にとっては、どちらも感じは悪いだろうから、観ない方がいいかもしれない。

『銀河』がよく分からないのは、現実の風景とおとぎ話的な寓話が混じりあっているからだろうと、今にして思う。セダン型の車が舗装された道路を走っている現実的な光景に、キリストやマリア様やサド侯爵が、いかにもおとぎ話のような衣装を着て登場する。デフォルメされた虚構が唐突に、当たり前のように出てくる。故に戸惑ってしまうのだが、同時に不思議な世界観に引き込まれてしまう。

とにかく、『銀河』はよく分からないのだけれど、感覚的に面白いと感じてしまう。この感覚はゴダールの『ウィークエンド』を観た時の感覚に似ている。自分は『ウィークエンド』の渋滞のシーンを見て、面白いと思ったが、それがなぜ面白いのかは上手く説明できない。多分に観る人のセンスによるものだろう。

余談だが、町田康が率いるバンド「汝、我が民にあらず」は、この『銀河』の中のセリフに由来する。

もう一つの映画『欲望のあいまいな対象』は、普通に面白いが、内容は谷崎潤一郎『痴人の愛』とほぼ一緒だ。自分は、過去にこのブログで『痴人の愛』を取り上げたことがあるので、気になった方はそちらを読んで頂ければいいと思う。もちろん、多少の相違点もある。『痴人の愛』の方が、主人公の男に同情できる。どちらも魔性の女にたぶらかされて破滅する馬鹿な男の話だが、『欲望のあいまいな対象』は、男にあまり同情できない。今の視点から見ると、『欲望のあいまいな対象』の主人公の言動は、単なるパワハラとセクハラだ。ひどい目にあって当然だろうと思ったのである。あまり深く考えずに観る分には、充分楽しめる映画だ。

不埒で不純な動機で書いた今回のブログだが、ルイス・ブニュエルという監督は、まさに不埒で不純な人だ。それだけに才気が溢れている。無理矢理こじつけたような結論だが、とりあえずこの辺で。

 

銀河 [DVD]

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