松本雄貴のブログ

本。映画。演劇。旅。

40回目「叫び声」(大江健三郎:講談社文芸文庫)

ブログの更新が少し滞ってしまった。最近、精神的に疲弊しており、良い作品に触れてもブログを書く気力が起こらなかったのだ。自分は基本的に怠け者なので、ブログを書くことに向いていないのかもしれない。だから、テーマの硬軟にかかわらず、ほぼ毎日のようにブログを更新している人は、単純に尊敬する。

そもそも、自分は文章を書くのが苦手なのだ。ある作品を読んで「面白い」と思った。或いは、「面白くない」と思った。それ以上、何を掘り下げることがあるのだろう。作品に対する批評なんて、意味があるのだろうか。そんな虚無的な考えが根底にあるため、書評や映画評を書くときは、自分自身に感じる白々しさと格闘しながら書いている。「批評には意味があるのだ」という情熱と、「批評になど意味はない」という虚無感が自身の中で拮抗している時は、必然的に筆が遅くなる。いうなれば、今がそんな状態なのだ。

大江健三郎の『叫び声』は、作者が20代の頃に書いた長編だ。若々しい熱量に溢れた小説で、こんな小説に触れると、冒頭に書いた自分の批評に対する考えがいかに甘いかを確認させられる。作者が若かりし頃に感じていた、世の中への異議申し立てが、体裁など気にせず書かれている。地下の奥深くで堆積したマグマが沸点を超えて爆発したような印象を文体から受けた。ただ、書かれている内容はかなり陰湿で暗い。負の方向に、文体のエネルギーが向かっている。熱のある文体なのだが、カラッと乾いた暑さではなく、ジトッとした蒸し暑さを感じた。(どうも例えが上手くなくてすみません)

4人の男(うち一人はアメリカ人)の青春、あるいは友情が描かれているのだが、青春というワードから受ける明るい印象は皆無だ。「癲癇」「梅毒」「強姦」といったおぞましい言葉、或いは、今日では差別的とされる言葉が、単なるフレーズとして使われているのではなく、小説を構成する重要なファクターになっている。そして、この4人の男がそれぞれ曲者でろくでもない奴らなのだ(特に呉鷹男という人物)。その点が、明るく健康的な他の青春小説と『叫び声』の大きな違いである。

4人の男の友情は、猥雑さという点では、開高健の『日本三文オペラ』やヤン・ソギルの『夜を賭けて』の登場人物たちと似ている。『日本三文オペラ』も『夜を賭けて』もアパッチ族をテーマにした小説で、作中の人物たちは、皆とても粗雑で暴力的だが、どこか愛嬌があり同時に大変な時代を生き抜こうとする逞しさがあったように記憶している。一方、『叫び声』の登場人物たちには、愛嬌や逞しさはない。(虎という人物は多少、可愛げのようなものは感じたが)。ネガティブで退廃的な妄想にとり付かれている。矛盾しているように思うが、そのネガティブで退廃的な妄想が、この小説の一番の美点のようにも思う。こんな小説を書いた若い頃の大江健三郎は、どこか危ういところがあり、その危うさを、小説を書くことによって昇華させていたのかもしれない。一歩踏み外せば、作者自身が小説中に描かれる危ない行為に手を染めてしまうような、ギリギリのラインに立っていたのかもしれない。と、いうのは勿論考え過ぎで、危険な人物を描く作家がイコール危険な人物、というのはありえない。ありえないのだが、一瞬、読者である自分に錯覚させる魔力があった。

5章からなる小説なのだが、4章の『怪物』は、正直物足りない。妄想から殺人に至るまでの、意識の変化がとても幼稚で、通俗的に過ぎる。「自分は怪物だ」と錯覚して、後先のことを考えずに犯罪に走る人間の思考回路は、概ね小説で描かれているような稚拙で短絡的なものだと思うし、リアリティがあるのかもしれないが、『叫び声』という小説では、「犯罪者の心理」などといった陳腐な言葉に要約されるような、ありきたりな事は描いて欲しくなかった。もっとこちらの想像力を超えるような狂った世界を描いて欲しかった。というのが、ひとつ不満である。

以上

 

叫び声 (講談社文芸文庫)

叫び声 (講談社文芸文庫)

 

 

にほんブログ村 小説ブログへ
にほんブログ村

39回目「サーミの血」(アマンダ・ケンネル監督)

スウェーデン北部に住む少数民族サーミ人の少女を主人公にした物語。人種差別をテーマにした映画で、主人公が、スウェーデン人から理不尽で屈辱的な仕打ちを受けるシーンは、観ていて辛くなる。

映画としては、よくわからないシーンが幾つかあって(というのは、自分の無知と理解力の無さに起因するのだが)、ずっと心に残るような傑作だとは思えなかった。主人公の少女が、スウェーデンの大学に通う経緯が、よく分からなかった。ダンスホールで出会ったスウェーデン人の青年と一夜を過ごし、翌朝別れてから、次のシーンでは、もう大学のキャンパスに入っているのだが、いつの間に入学したのだろう。単に大学に忍び込んだだけなのかと思ったが、ちゃっかり体操の授業なども受けている。その後、授業料を払わないといけないという書面を受け取っていたので、正式にはまだ入学していないらしい。ここら辺の説明が、省略されていてよく分からなかった。

また、冒頭のシーンに出てきた老婆が、未来の主人公の姿であることがラストで分かるのだが、それまで自分は、この老婆が主人公の祖母だと勘違いしていた。要は、老婆が登場する最初と最後のシーンが現代で、本編は過去の話だったわけだ。それに気付かず、ずっと現代の話なのかと勘違いしていた自分は、現代のスウェーデンで、あのような許しがたい人権侵害と差別がまかり通っているのかと憤っていたが、どうやら昔の話だったことが判明したので、少し安心したのである。

まあ、差別は過去も現代も未来もあってはいけないものだが。

というわけで、映画の評価としてはイマイチだったが、それは自分自身の鑑賞力の問題である。

 ただ、差別ということに関しては色々と考えさせられた。

スウェーデンを含む北欧の国々は、税金は高いが福祉の行き届いた国で、国民の生活水準と幸福指数はともに高い。そんな漠然としたイメージを持っていたが、一方で、映画で描かれていたような人種差別、少数民族に対する偏見や迫害も存在していたわけだ。そして、今現在も存在しているかもしれない。自分が持つイメージというものが、いかに漠然としていて、根拠の薄弱なものであるかを気付かされた。物事というのは、多面的に見ないといけないということだ。

 差別がなぜ起こるのかということも、愚かなりに少し考えてみた。

今、アメリカは大統領選の真っただ中で、トランプ(支持者)とバイデン(支持者)が、共に醜く不毛な応酬をしている映像を、何度となくテレビで観ている。暴力沙汰に発展したケースもあるみたいだ。「どちらかが一歩引けば良いのに」などと自分は思うが、渦中にいる人たちは当然、「自分たちが正しい」と思っている。あの不毛な応酬をしている人達には、おそらく悪意はない。純粋に自分たちの意見が正しいと、本心から思っているのである。だから、余計にタチが悪い。アメリカ大統領選を例に出したが、身近な例でも同じような構図は沢山ある。SNSでの誹謗中傷合戦などもメカニズムは同じなのではないだろうか。差別というのは、「自分は正しい」と思う精神が、捻じれて他者の攻撃に転化したもののように思う。偉そうなことを書いたが、自分自身も渦中に入れば、見境がなくなり、自分とは意見を異にする他人を攻撃してしまうかもしれない。そうならないためには、どうすればいいか。答えは、徹底的に自虐的になることである。「自分は愚かだ」「自分は間違いを犯す」と常に頭の片隅に入れておけばよい。しかし、それはとても難しいことだ。

だからこそ、他者に向けている言葉を、発する前に一度飲み込んで、自分自身に向けてやると、割と差別が少なくなり、世界が平和に傾くのではないだろうか。実際は、そんなに単純なものではないし、歴史的・文化的な要因が複雑に絡まり合って、差別が根付き、蔓延っていることは重々承知している。

しかし敢えて、このような青臭い理想主義を叫んでみたくなった。青臭い思想は、案外、少なからずの人を啓蒙できるのではないだろうか。

後半は、映画評とは全く関係がなくなったが、悪しからず。

以上。

 

サーミの血(字幕版)

サーミの血(字幕版)

  • 発売日: 2018/06/06
  • メディア: Prime Video
 

 

38回目「コルタサル短編集 悪魔の涎・追い求める男」(フリオ・コルタサル:岩波文庫)

アルゼンチン出身の作家、フリオ・コルタサルの短編集だ。表題の2作を含め、全10作品が収録されている。ラテンアメリカの文学について、自分は殆ど知らない。ガルシア・マルケスの小説を過去に一作だけ読んだことがあるくらいだ。

何も知らないので、変な偏見を持たずに読み始めたのだが、読み終わった後も「なるほど、これがラテンアメリカの文学か」とはならなかった。規定のジャンルに分類するのが困難なほど、どの作品も毛色が違ったからだ。そもそも、文学でも芸術でも、ある既存のカテゴリーに分けること自体がナンセンスであり作家に失礼な気がする。「ジャンル」とか「テーマ」などといった、一言では要約できないモノを描くことが本来の文学であるはずだ。そんなことはさておき。

収録されている10作品とも毛色が違うが、面白さの優劣はある。

それぞれの感想を以下に記す。 

『続いている公園』

わずか2ページしかない非常に短い作品。短いが、なかなか薄気味の悪い印象を残す作品。ありがちな発想ではあるが、ちょっと背筋が寒くなる。

 『パリにいる若い女性に宛てた手紙』

口から兎を吐き出す男が出てくる。奇想天外な設定だが、そのような「ありえない」ことを、普通の日常のように描く。主人公は「口から兎を吐き出す」せいで、色々な困難を経験するが、「なぜ口から兎を吐き出すのか」という根本的な疑問には、一切触れられない。そんなことは、大した問題ではなく、ただ吐き出してしまった兎の処理に右往左往する様子が描かれる。方向性はカフカの『変身』と同じような気がする。

 『占拠された屋敷』

地味な兄妹が住んでいる家が、徐々に何者かに占拠されていく。最初に半分を占拠され、次いで、全部を占拠される。兄妹は抗うことなく事実を受け入れる。権力に搾取され、洗脳され、反抗する意志をも持たなくなってしまった独裁国家の国民の悲劇を寓意的に描いている、という解釈は飛躍しすぎだろうか。そんな大袈裟なことは考えずに読む方が、案外、不条理な世界を体感できてよいかもしれない。

 『夜、あおむけにされて』

自分の解釈が合っているのか自信はないが、悪夢だと思っていた方が現実で、現実だと思っていた方が悪夢だった。・・・ということでいいのかな? 

 『悪魔の涎』

自分的には、これが一番難解で、かつ面白かった。「斬新な実験性と幻想的な作風」と、コルタサルの小説の特徴が表紙に紹介されているが、まさしく、そんな小説だった。安部公房の『箱男』に似た印象を持った。

 『追い求める男』

収録作品の中で一番長い。そして、一番マトモな小説。それ故、あまり面白くなかった。「物語」という点では、一番読み応えがあるのだが、他の作品と比べると少し浮いている。天才的なサックス奏者の伝記を、彼の友人であるジャズ批評家の一人称で描いた作品。音楽家としては天才だが、普段の生活は麻薬に溺れるダメ人間というシンプルな構図で描いて欲しかった。批評家と芸術家の関係性に言及するところなど、蛇足だと思う。薬物中毒者の退廃的な生活と、ステージ上で輝く天才サックス奏者、そのコントラストを順に描く方が、分かりやすく、面白いと思った次第だ。

 『南部高速道路』

これは面白かった。高速道路上で途轍もなく長い渋滞に巻き込まれた人達のお話。高速道路上という隔絶された空間の中で、他人同士がコミュニティを形成し、渋滞から解放されるために様々な手段を画策していく様子が面白い。協力だけでなく、敵対や利害関係もきちんと描かれる。人々が隔絶される場所が、無人島とか密室ではなく、高速道路上というのがよい。あくまで渋滞だから、少しずつ流れていくのである。車の外に出て色々な事を画策するのだが、渋滞が少し和らいで車がわずかに流れ出すと、運転席に戻って進まなければいけない。じゃないと後続車にクラクションを鳴らされる。こういう描写は高速道路だからこそできるのであり、無人島ではありえない。流動する密室という、ありそうでなかった設定が効いている。またコミュニティが形成される様子が興味深い。延々と果てしなく続いている渋滞の中では、全ての人間が同じコミュニティに属することは不可能であり、登場人物たちは、自分たちの手の届く範囲でチームを作る。ゆえに、コミュニティの境界線は曖昧だ。その曖昧さが上手に表現されている。国境の概念なども、よく似たものなのだろう。

 『正午の島』

南部高速道路が面白かったので、次の作品は、正直、印象が薄い。飛行機のキャビンアテンダント(男性)が、フライト中にいつも見下ろしていたギリシャの離島を訪れ、定住することを決める。仕事も恋人も安定した生活も捨てて、夢見ていた地に住む男のロマンが描かれる、『イントゥ・ザ・ワイルド』のような小説なのかと思いきや、ラストが少しいただけなかった。

 『ジョン・ハウエルへの指示』

芝居を観に来ていた男が、急に舞台に上げられ役者にされてしまう、というお話。冒頭の3行が、格言めいている。演劇とか舞台役者をやっている人なら、この短編は参考になるかもしれない。ピーター・ブルックに捧げられたものらしい。

 『すべての火は火』

最初の3ページくらいは、恐らく、誰が読んでも全く内容が分からないだろう。何故かというと、全く関係のない二つの物語がミックスされているからだ。ミックスされていることに気付いてからは、何となく、分かるだろう。しかし、不親切だ。二つの物語を混ぜているのだが、改行したり段落を変えたりすることで二つを区別しているわけではない。普通に続いているように見えて、急に別の話に変わっている。前衛的といえばそうなのかもしれないが、方法は短絡的で安直だと思った。太宰治の『虚構の春』の方が、まだ工夫されていたように思う。

 

以上

 

 

37回目「ONE OUTS」(甲斐谷忍:集英社コミックス)

『異端の鳥』という映画を観たいと思っていたのだが、まだ観ていない。映画を観に行く時間が無いのだ。ただ、今後、時間が出来ても恐らく『異端の鳥』は観ないと思う。何故か。『異端の鳥』を観た人のレビューを沢山読んでいるうちに、どうも観る気が失せてしまったのだ。

主人公の少年が、めちゃくちゃ迫害され差別され虐待され、人間としての尊厳を徹底的に踏みにじられるが、最後は希望が持てる映画。

多くの人が書いたレビューを総合すると、概ね以上のような映画らしい。

だいたいどんな映画かは分かったし、今の精神状態で観るのはなかなか辛いので、きっと観ないと思う。

 
 ということで、本日は『ONE OUTS』という漫画を紹介する。「ワンナウツ」と読む。『ライアーゲーム』の作者、甲斐谷忍の漫画だ。『ライアーゲーム』よりも前に描かれた漫画なので、けっこう昔の漫画なのだが、今読んでも面白いし、設定が斬新だ。

マックス120k/h前後のストレートしか持ち球のないピッチャー(渡久地東亜)が、相手バッターの心理を読み取りアウトを重ねていくという物語。

 多くの野球漫画は、最終的に力と力の勝負になりがちだが、『ONEOUTS』は「理屈」のみで勝負している漫画だ。ここが新しい。暴風雨で球場が水浸しになっても試合を続けたり、観客全員がイカサマに関わっていたり、と、部分的には強引でデタラメな設定もあるが、そのデタラメさを「理屈」が凌駕している。ありえない設定でも、ありえる、と思わせる。心理学の要素を野球漫画に持ち込み、成立させている。とてもスマートで知的な野球漫画だ。

また『ONE OUTS』は、相手チームだけでなく、味方であるはずの球団オーナーも敵になる。二つの敵を相手に、渡久地東亜がどのように切り抜けるか、というなかなか難しい設定だが、これも全く破綻がなく上手に纏められている。

主人公の渡久地は、悪魔的な洞察力で相手打者を翻弄し、騙し、罠にかける冷酷でダーティーな主人公だが、理屈が一本、きちんと通っているので、読んでいて清々しいのだ。

そして、最後は少しホロっとさせられる。

球漫画だが、現代の難しい社会を生き抜くための教訓も散りばめられている。渡久地のセリフは、数多存在する胡散臭い自己啓発本よりも、役にたつ。

 

ちょっと、纏まりのないレビューで申し訳ないけど、体調がすぐれないので、今日はこの辺で。

でも、本当に面白い漫画です。

以上。

 

ONE OUTS 全20巻 完結セット (ヤングジャンプコミックス)

ONE OUTS 全20巻 完結セット (ヤングジャンプコミックス)

  • 作者:甲斐谷 忍
  • 発売日: 2011/02/28
  • メディア: コミック
 

 

36回目「ルルドの泉で」(ジェシカ・ハウスナー監督)

自分はこの映画を2回観た。別に気に入ったから2回観たわけではない。一度観て、ブログを書こうと思ったが、色々諸事情があって、ブログを書く時間がなかった。時間が経つと、記憶が薄らぎ抽象的な感想しか出てこないので、昨日の夜中に2度目の鑑賞をしたのである。

一度目を観た後の感想は、退屈、という感想だった。ゆえに、数日経つと殆ど記憶が薄らいでいた。

内容は、不治の病で車イスを使っている女性が、聖地巡礼のツアーに参加し、立って歩けるようになる。というもの。DVDのパッケージに紹介されていた内容は、女性が奇跡的に歩けるようになった後、他の人々の嫉妬や羨望を買うサスペンス、というものだった。

自分は、その紹介文を先に読んでいた為、女性が歩けるようになった後の、サスペンス部分を楽しみにしていた。しかし映画の後半、サスペンス色は皆無だった。ゆえに肩透かしを食らったのだ。あらすじの紹介に「サスペンス」と記すのは詐欺ではないだろうか。と、制作会社にひとつ、苦言を呈しておきたい。自分がここで不満を書いたところで、どうなるわけでもないが、もしこれから観ようと思っている人がいれば、多少の参考にはなるかなと思いつつ。

ただ、サスペンス色は皆無であるが、悪い映画ではなかった。「サスペンス」を期待したのは、自分の情報不足と早とちり、そして制作会社の責任であり、映画自体に罪はない。

どうしても前半が長く感じる。施設内での食事、就寝、介護、屋外での巡礼、といった基本的にあまり変わり映えのしないシーンが、淡々と繰り返される。見終わって最初に「退屈」と感じた要因の一つだ。

良いなと思った部分も幾つかある。

それは、主人公の女性を含む、奇跡を期待して巡礼に参加した人たち、或いは、介護者や聖職者たちの、人間らしさにある。この映画に登場する人たちは、皆、驚くほどみみっちい。宗教をテーマにした映画なので、常人には理解できない崇高な考えを持った人たちが沢山出てくるのかと思いきや、全然、そんなことはない。寧ろ、俗人の思想・思考を持った人たちばかりだ。

例えば、主人公の女性。懺悔室のような場所で「なぜ神は自分の足を歩けなくしたのか」「なぜ他の人じゃないのか」「私ばかりが・・・」といった類の不満を漏らす。それに対する神父も「全ての健常者が君より幸せなわけではない」とか「人それぞれだ」といった、まるで開き直りのような解答をする。

恐らく自分が女性の立場なら、「神」と呼ばれる存在に同様の不満を漏らすだろうし、神父の立場でも、内心、「めんどくせぇ」などと思いながら、その場を取り繕う為に同様の、当たり障りのない事を言うだろう。

他の巡礼者たちも、「あの子の方が真面目に神に仕えているのに、なぜあの子ではなく、彼女に奇跡が起こったの?」とか「事故のせいで、婚約者と別れた」とか、もっとストレートに「神様、歩けるようにして」と願う人などもいる。要するに、皆、どこか未熟な思想を持った人間で、聖職者とされる神父ですら、人生を達観しておらず、多くの人間と同じ通俗的な人たちで、そこにリアリティがあり、かつ好感が持てたのだった。

というような感想を薄っすらと残しつつ、2回目を観たのだが、一度目の鑑賞時には気付かなかった、丁寧な演出に、少し唸った。何気ないシーンでも、よく見るとフリーズした主人公がヨダレを垂らしてたり、細部のこだわりが、中々のものだった。

ラスト。ダンスのシーンで、好意を寄せる男性と踊っていると途中で倒れてしまい、そのままゆっくりと車イスに座るところで映画が終る。ステージ上で男女がデュエットする場面から、音楽をそのまま引き継いでエンドロールに流れるところが、結構好きだった。

立てるようになった彼女が、再び車イスに座るシーンは、何かのメタファーなのだろうか。

以上。

 

ルルドの泉で[レンタル落ち][DVD]

ルルドの泉で[レンタル落ち][DVD]

  • 発売日: 2012/08/03
  • メディア: DVD
 

 

にほんブログ村 映画ブログ 単館・ミニシアター系映画へ
にほんブログ村

35回目「マティアス&マキシム」(グザヴィエ・ドラン監督)

タイトルの通り、マティアスとマキシムの二人の恋愛の映画だ。二人は男性なので、ボーイズ・ラブの映画である。まず一つ不満がある。劇中では「マティアス」「マキシム」というタイトルに使われている名前では、両者ともあまり呼ばれない。「マット」「マックス」と呼ばれる。髭を生やした彫の深い顔立ちの男性がマットで、顔にアザがある男性がマックスである。

自分は外国映画を観るとき、何故か、なかなか登場人物の顔と名前が一致しない。レビューを書くにあたり、これでは問題があるので、登場人物の名前が出てきた時点で、「こいつは○○」と頭の中で3回ほど復唱して覚えるようにしている。それでも覚えにくい場合は、その人物の見た目と関連付けて覚える。今回の場合だと、髭が生えている方がマットなので「ヒゲマット」、アザがあるほうがマックスなので「アザマックス」などと勝手に名称付けて覚えた。だからそれで統一してくれればよかったのに、途中何度かタイトル通り「マティアス」「マキシム」と呼ばれるところがあった。だから、マティアスはどっちでマキシムはどっちだっけ、と若干混乱した。

これが、一つ不満である。まぁ、こんなことで不満を感じるのは自分くらいだろう。

で、肝心の映画の内容である。

最初は普通の男友達だった二人が、仲間の妹が撮る自主映画に出演することになり、そこでキスをする。マットはその瞬間、マックスを友情ではなく恋愛対象として好きになってしまう。或いは、元々その気があったが意識の底に隠していた感情を、キスシーンによって呼び起こされたのだろうか。そこは定かではない。以降、マットはマックスを意識するあまり、マックスに対してそっけない態度をとるようになる。一方、マックスは母親との関係で問題を抱えており、マットとマックス、それぞれの悩みや葛藤を斬新な映像とセンスのある音楽で描いていく。

ここら辺の映像は、さすがカナダの鬼才と呼ばれるだけあって、グザヴィエ・ドラン監督の才能を感じた。

ただ、どうもマットの葛藤が自分の心の奥深くまでは入ってこなかった。入ってきそうな瞬間が幾つかあったのだが、入りきる前にフェイドアウトして、そのまま次のシーンに移る。だから、どうしても平坦な印象しか残らず、最後まで観ても、結局「だから、どうした」という以上の感想はもてなかった。

一つは、マットの行動の描き方に問題があるように思う。唐突な行動、意外な行動の後に、案外ベタな感情を吐露したりする。キスシーンを撮り終わった夜、マットは眠れなくなり近くの湖(海かもしれない)でかなり遠くまで泳ぎだす。見応えのあるシーンで、マットの言葉に出来ない苦悩をよく表していたが、そこで終わって、それ以上、マットの内面を深追いはしない。次のシーンでは、弁護士として働くマットのごく普通の日常が描かれる。

また、マックスがオーストラリアへ旅立つ数日前に、仲間達でお別れのパーティーをするのだが、マックスに対してモヤモヤした気持ちを抱えているマットは、このパーティーの席で、空気の凍るような言動をしてしまい、乱闘を引き起こしてしまう。このシーンも唐突かつ意外な展開で見応えがあった。だが、前述の湖で泳ぐシーン同様、マットがこのような行為に至る動機は、多くの恋愛に共通する、恐ろしくベタで有りがちな理由で、そこに斬新さはなかった。要約すれば、「好きな人の前で素直になれない」というような、とても陳腐な言葉で片付いてしまう。

グザヴィエ・ドラン監督の映画は、これ意外は「たかが世界の終わり」しか観ていないが、「たかが世界の終わり」は、陳腐な言葉では片付けられない深さがあった。だから見入ってしまったのだが、対する「マティアス&マキシム」には、そこが欠けていたのかもしれない。

最後に何点か感想を述べると、キスシーンを撮った妹のキャラは個人的にけっこう面白かった。薄っぺらい映画論を得意気に語るのが、愛嬌があって可愛かった。

パーティーシーンが多い映画だが、同年代の友達同士のパーティーに母親が普通に参加するのは、この国ではよくある事なのだろうか、という疑問が去来していた。

映画館で観たのだが、なかなかお洒落なポストカードをもらった。このポストカード、けっこう好きだ。

以上。

f:id:yukimatsumoto8181:20200925225943j:plain

 

にほんブログ村 映画ブログへ
にほんブログ村

34回目「希望の国のエクソダス」(村上龍:文春文庫)

村上龍の小説は、ほとんど読んでいなかった。大昔に『コインロッカー・ベイビーズ』と『限りなく透明に近いブルー』を途中まで読んで投げ出した。それ以降、エッセイをたまに読むくらいで、小説は全く読んでいない。

まずタイトルが苦手だった。今回、読了した『希望の国エクソダス』しかり『愛と幻想のファシズム』しかり。何か大仰でカッコ付けてる感じが苦手で、ずっと敬遠していたのだった。

しかし、読まず嫌いはよくないので、改めて『希望の国エクソダス』を購入し読みだしたのだが・・・。 

これがすこぶる面白い。ナマムギというパキスタンで地雷撤去の作業をしている少年。その少年に触発された日本の中学生達が、日本という国のシステム(このシステムには日本の様々な問題が内包されている)を見限り、中学生達だけの新たな組織を作っていく(組織という概念自体が作中の中学生に言わせればナンセンスなものなのだが、あらすじ説明の便宜上使用した)。中学生たちによる革命を、経済と国際情勢の膨大な知識を絡めながら壮大なスケールで描いた小説で、どこを読んでも退屈させない。作中の中学生たちの破天荒かつ理知的な行動に比例して文体もとにかくエネルギッシュだ。

希望の国エクソダス』の前に古井由吉の短編集を読んでおり、こちらは個人の内面や一つの事象に深く深く掘り下がっていくような小説で、そのような内向の文学を好んで読んでいた自分には、古井由吉の文学とは全然テイストの違う、外に向かってエネルギーを放出しているような『希望の国エクソダス』は、とても新鮮だった。 

物語の狂言回しであるの「おれ」のキャラクターが魅力的だ。「おれ」は中年の雑誌記者で、ナマムギの取材のために乗った飛行機の中で、中村くんという一人の中学生と出会う。これが、中学生達と「おれ」の最初の出会いであり、以後、「おれ」は中学生達と接しながら、言葉に出来ない複雑な感情を抱くようになる。 

この「複雑な感情」が、とても丁寧に描かれている。小説を牽引する力は、「おれ」の外側の状況、すなわち、中学生達の奮闘(中学生達は概ねクールなので奮闘ではないかもしれない・・・)と激動の社会情勢を並行して描くダイナミズムにあり、事実、そこにも目を奪われるが、一方で「おれ」の内面は、とても繊細にミニマムに描かれている。そして「おれ」の目線の低さが、とても人間的だ。自分は中学生達から信頼されている数少ない大人だと自負し喜ぶ反面、自分の旧来の価値観からは明らかに異質で規格外である中学生に、畏怖する感覚がとても共感できる。

嫉妬とも憧憬とも言えない感情や、自分は他の大人たちと同じく中学生の敵であるのか、或いは、彼らの理解者であり応援者であるのか、逡巡する瞬間。中学生の突飛な行動と発想を、自分の倫理観と照らし合わせて違和感を覚える瞬間。しかし、その違和感を「自分が正しい」という根拠にまで発展できないもどかしさ。「自分は何も知らない」ということを知った瞬間。その一つ一つに頷かされる。

「おれ」が完全に中学生の味方であり、旧態依然とした大人のシステムに中学生と共に戦うというような単純な二項対立の物語だと鼻白むが、そうでないところが、小説に奥行きを与えている。横軸にダイナミックなストーリーがあり、エンタメ経済小説としても充分楽しめるが、奥行きに以上のような「おれ」の葛藤を始め、文学的な主題が流れており、重厚な小説に仕上がっている。

ということで、もっと村上龍の小説を読みたくなった。次は『昭和歌謡大全集』でも読もうかな。オバサン軍団と少年軍団が殺し合う話らしいし、これもスケールがでかそうだ。期待する。

以上

 

希望の国のエクソダス (村上龍電子本製作所)